死刑になるべき人たち、病んでる国、その他、その3。

今回は、産経新聞からの引用です。例によって無断転載で恐縮です。
少年3人、ウサギ蹴り殺す サッカー遊び「面白半分やった」
 東京都江東区の小学校で児童が飼育していたウサギをけり殺し、運河に捨てたとして、警視庁少年事件課は動物愛護法違反などの疑いで、同区の無職少年(18)を逮捕、別の窃盗事件で逮捕されたいずれも十八歳の無職少年二人を追送検した。三人は「ゲームのつもりで面白半分にやった」と供述。一緒にいたグループの少年一人が「かわいそうだからやめてくれ」と泣きながら訴えたが聞き入れず、けり続けたという。
 調べでは、少年三人は昨年五月八日午前五時ごろ、区立辰巳小に侵入、小屋で飼育されていたウサギ一匹を持ち去り、校庭や近くの公園でけるなどして殺害。石を入れたポリ袋に入れ、公園前の運河に捨てた疑い。
 公園では約十五分間、ウサギを取り囲み、逃げようとするとけって虐待を加えていた。三人はオートバイ盗やひったくりを繰り返していたグループの一員で、うち二人は同校の卒業生だった。けるのをやめるように訴えた少年は別の小学校で動物の飼育係だったという。少年三人は「最初は面白半分だったがエスカレートしてしまった。サッカーのインサイドキックやボレーシュートのようにけった」と供述しているという。
 死んだウサギはオスで名前は「ゆきのすけ」。辰巳小で約四年前から飼われ、命の大切さの教育にも活用されていた。「ゆきのすけ」がいなくなってから、児童たちは手作りポスターを周辺に張るなどして必死に捜した。並木明校長は「子供たちには『いつかは帰ってくる』『どこかで飼われている』と話していた。非常に残念。それ以上何も言えない」と話した。

いつになっても、どこに行っても、我が国でこの手の事件が無くなる事は無いっぽいです。


この件についての感想というか感傷というか、また諸々書こうかと思ったのですが、私の敬愛し且つ尊敬するプロレスラーの小島聡選手が、見事に私の心情を結果的に代弁してくれてますので、ここでは割愛します。
ホントに見事に、一字一句私も小島選手と同様に考えてました。で、そのことを小島選手は私よりずっと簡潔且つ明瞭に書き著してらっしゃいます。
これも無断でリンク貼らせて頂きます。今回は「無断」が多い。我ながら遺憾です。すいません。
http://leglock.cocolog-nifty.com/kojilog/2006/02/post_a2cb.html こちらです。
全くもって余談ですが、小島選手のblogは、こと「著名人blog」の中だけでなく、日本中全てのblogの中で一番面白いんじゃなかろうか、と思ってたりします。
blogという「メディア」とはかくあるべし、というお手本のようなblogかとさえ思います。
 
 
 
閑話休題。
・・・生きてるウサギ等小動物を面白半分で蹴り殺すなんて所業は、普通、ちょっと出来ないだろ~!と思うんですよ。
何らかの必然性…例えば食用であるとか…があるならいざ知らず、「面白半分」に、ってところに、異常性を感じます。感じないわけにはいかない、というか。
大昔の中国、孟子だったか老子だったかが言ってたそうです。
いわく、人間には本質的に「人に忍びざるの心」もしくは「惻隠の情」というのがある。
例えば穴に落っこちそうな子供がいたとしたら、人間というのはその子を助けようとせずにいられない生き物である、と。
すなわちこれが「性善説」というやつである也、と・・・大昔、世界史?倫理?だかの時間に習った覚えがあります。
しかるに今回の件のクソガキどもは、無抵抗な、ものも言えない小動物を、なんの必然性も無く、本人達いわく「面白半分に」蹴り殺している。
なんでこのアホガキたちがこういう所業をなしえたか。
ここまでの答えは簡単で、彼らがもはや人間ではないから、ということに尽きちゃうと思うのですが、では何故彼らは人間でなくなっちゃったか。
当サイト管理人には、ちょっと思い当たるフシというか、その関連が想像できる体験があるんですよ。


・・・あれはもう3年も前になりますが、当サイト管理人は、江東区内の某小学校の「先生」をやったことがあります。
ちょうど全国の小中学校で完全週休二日制が導入された時期だったんですが、その小学校では本来休校である土曜日に、様々な職業etcの地域の「大人」を講師に招いての「課外授業」を行ってまして、私にその講師として白羽の矢が立った、という次第です。
私の授業は「ビデオ制作講座」。
小学生に映像制作は難しいんじゃない?という意見もあったらしいんですが、いやいやどーして最近の子供は昔に比べてビデオカメラなどに触れる機会も多いし、ここはひとつ…!ということでの依頼でした。
せっかく依頼頂いたんだから本格的に、ということで、エイゼンシュテインのモンタージュ理論だとか、クロサワ映画におけるマルチカメラであるとか、宮川一夫であるとか、我ながらかなり本格的な計46ページものテキストを作ったり、教室上映用に小津のカラー作品やクロサワの「どん底」の馬鹿囃のシーンなどを編集したりなどしたもんです。
その本格的さが災いしてか、もしくはあまりにもスパルタすぎたせいか、初日に20人以上いた受講希望児童が最終日には3人になり、また講師陣は大抵毎年受け持つはずであるのに私のところにはこのとき限り現在まで二度と依頼が来なくなっちゃったりなど、これはこれでまぁ色んな話があるのですがそれはともかく、この全5回に及んだ我が講座進行の中で最も印象的だったのは忘れもしない初日。
小学生のこの手の「イベント」参加時の常ではあるのでしょうが、この初日、非常に教室が騒がしかったんです。
で、当初からスパルタ式にコトを進める所存であった私は、当然の所業として、騒いでる子供達を、ノンのちょっとだけ叱ったんです。
“こら!きみたち、授業なんだから静かに!”
と。
・・・その時の子供達の顔、未だに忘れません。
キョトン、と、呆然と私の顔を観る、その顔。
そこには、萎縮も、反抗の意思もみられず、ただただ「キョトン」と、みんなして私の顔をみる、その顔。
かつて野球部だった時代も、社会人になって部下を叱ったときも、相手にあんな顔をされたことは無かった。
・・・初日の講義を終えて、先生方と歓談する時間がありましたので、さっそく聞いてみました。
教室には、おそらくは講師の監視役として先生方もいらっしゃいましたので、ストレートに聞いてみました。
“なんであの時、あの子らは、ああいうリアクションをとったんでしょうかねぇ?”
それに対する先生方の答えがスゴかった。
いわく、基本的に今の子供達は、大人に怒られる、という体験が皆無である、と。
親はほぼ子供を叱らないし、我々教師も、子供を叱る、子供に怒るということはしない。
“だから、きっとみんな、安藤さんに怒られたのが、人生で初めて他人から怒られた経験だったんだと思います”
だってやんの。
じゃあ、なんで親や教師は怒ったりしないのか?・・・これの答えもスゴかった。
“今の児童教育というのはですね、子供の人格や人権も最大限に保障する、というスタンスで成り立ってるんでねぇ”
(そんなこと当然だろこのバカ)みたいな顔して言われました。


・・・以前もこのblog上で書いたような気がしますが、誤解を恐れずに書きますが、私は、子供を人間扱いしちゃいけない、と思うんですよ。
もっと言っちゃうと、子供は人間じゃない、だから、「人権」なんぞ未だ持たなくてよろしい、とまで、場合によっては思ったりします。
子供達は・・・彼らは「人間」になるための修行期間の途上にいるのであって、そんな彼らを、早々に、またヘタに「人間扱い」してしまうのは、真っ当な人間になるための修行における妨げでしか無い、と思うのです。
逆の視点からいうと、ワレワレ大人は、それこそ全身全霊でもって、人間未満の存在である彼らを「人間」にまで育てなければならない・・・これが大人の責務というか義務というか、だとも思うのです。
上記したような「惻隠の情」などなど、人間が人間として持ってて「当然なものごと」は、ワレワレ大人が未熟な彼らに刷り込んでやらなければならないはずです。
こういうことを言ったり書いたりすると、“だから、そういうことはちゃんとクチで説明してあげて・・・”だとか言ったりする人がいるんですが、「人間として必要な・大切なこと」というのは、往々にして、論理思考~認識能力や、場合に寄っては言語中枢が、その「クチで説明したこと」を呑み込めるようになるほど成熟してから教えたんじゃ手遅れだったりするんですよ。
理屈でどうこう言う前に、体で覚えさせなければいけないことだって多いはずです。
そのためには、怒られたり怒鳴られたり・・・あくまでも行為する側に確固たる信念と資格があるのであれば、という前提付きですが、体罰も場合に寄っては必要だと思うのです。
理屈でなく悪いことは悪い、良いことは良い、ということを教え込まなければいけない重要な時期(のひとつ)にあるであろう小学生が、全く誰にも怒られたりすることなく生活している・・・これは他でもない本人にとっての悲劇です。
キツく叱ったりすること自体が彼らに対する人権侵害だ、ってんなら、子供に人権など与えちゃいけません。
(これは余談ですが、上記の「理屈でなく悪いことは悪い、良いことは良い、ということ」、これらの概念はその「理屈でなく」という性質上、例えば国や民族、地方によって多少の異なりが出てきて然るべき価値観だと思います。この場合、この「多少の異なり」の集積が、それぞれ「らしさ」、民族性や風土の基になってるのではないか、とも思う。昨今日本でも「地方の時代」~「地域性の見直し」などとよく言われてますが、それはイマイチ上手い事進まないのは、この辺にも事情があるような気もします)
地球上の殆どの生物は、大抵、生殖し、子孫を産み落とし、その子が一人前になるのを見届けて死にます。
昆虫なんかの場合、タマゴが成虫になる前に親は死んじゃったりしますよね。これは彼らにとってのいわゆる「教育」が、タマゴを生んでそれが孵化したくらいで完結しているから、なわけです。
しかるに、人間は約80年生きてたりします。
これはその間に「若者」に伝え教える事が残ってるからに相違無いはず。
それが自然の摂理ってやつです。
子供の人権を保障して云々、などというのは、単なる責任回避・・・もはや国家ぐるみでのサボタージュ、ひいては神への冒涜だ、と。
もしくは、認識の甘さですね。
何の必然性も無く、罪も無い小動物をなぶり殺しにしちゃったりなど、教えなくたってしないだろう、みたいな甘さ。
さて、今回の件のバカガキ(18)×3名ですが、要するに、人間として刷り込まれてなきゃならない基本的な事さえ学べずに18年生きてきちゃった、ってことなんでしょうね。
彼らは人間として必要な事を学べず、生まれっぱなしの単なる哺乳類として18年間生きてきてしまったんだろう、と。
ずっと上の方で「異常性を感じる」と書きましたが、これは、彼らがあまりにも年相応に育ってない、という部分に対するアレルギーだったような気がします。
残念ながら、もの言えぬ小動物を殺しちゃいけない、とか、そういうことしたら可哀想だとかっていう事柄は、18歳になってからじゃもう刷り込めない事柄だと思います。
だから、ちょっと更正はムリなんじゃないかしら。彼らにとってよっぽど革命的な心的情動でももたらされなければ、このトシで新たな、しかもこのようなかなり根源的な刷り込みは難しいように思います。
そういえば、足立区・綾瀬で起こった、女子高生コンクリート詰め殺人事件、これの共犯の男、出所後にまた恐喝だかなんだかやらかして捕まったですね。
かつて自分の犯した上記事件を、自慢げに吹聴して廻ってた、とのこと。
 
 
やんぬるかな、です。

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