2013年1月12日

昨日に続いて。今度はAKBのこと。

以下は2013年1月12日の日刊スポーツ記事です。

講談社は11日、12日に予定していた週刊の漫画雑誌「ヤングマガジン」の発売を延期すると発表した。AKB48河西智美(21)の胸を少年が手で隠す写
真の掲載を予定していたが、同社はこれを「社会通念上、読者に不愉快な感情を抱かせる」と判断した。出版取次会社への搬入も済んでいたが、回収した上、内
容を差し替えて今月21日に発売する予定。写真は、2月4日に発売する河西の写真集の表紙に使われる予定だったが、発売自体も白紙に戻して検討中としてい
る。

・・・いくつか想うところがあるのですが、ひとつめ。

例えばキャバクラが密集してる地域があるとして、どの店も「おさわりNG」としてる中、ある1店舗だけが「ウチはまぁちょっとくらいならOKです
よ」とやったら、ある程度嬢のレベルに難があってもやっぱし客はそちらに流れると思うのですが、要するにそういうことなんですよね。AKB商法の主要要素
のひとつはこの手の「反則技」によると思えるのです。もちろんそれが全てでは無く、彼女らの様々な努力に依る部分が主なのはわかるのですが、それ以外の部分での反則技が目立つのも事実でしょう。

こういう「商法」は結局のところ所詮反則技でしかないので、往々にしてロクな結果は生まないものです。大抵の場合は反則を犯した店がペナルティを
食ってオシマイになるのですが、この「反則店」が資本的にもそれなりのポジションを確立したりした場合、その業界そのものが死んじゃうんですよね。上記の
キャバ店の例で言うと、その地域が最終的に過疎って終了、となるのが常です。たちかえって我が国の音楽シーンがどういう状況か、何をかいわんや、です。

あとAKBの場合、この反則の種類として「エロ」への訴求が目立つのですが、この訴求方法には「安定供給」は有りえないんですよね。刺激というも
のは不安定要素で、常にエスカレートし続けなければならない宿命があるわけです。だからこその「刺激」ですからね。前と同じことやったらそれはもう「刺激」ではない、そういう訴求はもう出来ない、という。

いつだったかTSUTAYAだか行きまして、なんかショートパンツ穿いた若い娘が足広げて座ってるポスターがデカデカとレジ横に貼ってあるのを見
まして、ああ、最近じゃ軽い着エロ系のコンテンツも堂々と宣伝したりしちゃってるんだな、と思ったら、それがAKBのセンターの娘の写真集だかなんだかのだっ
た、ってなことがありました。

今思えばこんなのはまだまだ軽い「刺激」だったんだな、と今回の写真を見て思いました。今回のこれなんか、もはや「軽くない着エロ」じゃねぇかよ、と。

この娘らは、もはやここまでやらなきゃAKBでいられないのかなぁ、かわいそうに・・・というのが第一印象でした。

この手に関してはオレはあまり通じてないですが、彼女らはきっと過酷なレッスンや、常人には想像もできないハードスケジュールなどを歯を食いし
ばってこなし、その上でわけわからんアンチなどによるいわれなき誹謗中傷にも耐え、してるはず。またこれだけの規模のムーブメントになると、彼女らが背負
う責任、重圧もハンパなものではないはずです。なんだかんだ言ってもみんなまだうら若き娘さんですからね。そんな娘がどれだけのストレスと戦ってるの
か、と。

その上で、若しくはそのために、彼女らは請われるままに半裸にまでならなければならないのか、と思うと、なんだかホントに悲しい話です。角兵衛獅子じゃないんだからね。

同時に、ここまでやらないと、いわゆるアイドルとして存在出来ないのだとすると、もういろんなことが業界としてオシマイなんだな、とも思いました。

ふたつめ。

仮にも大日本雄弁会講談社ともあろう存在が、なんでこの写真をそのまま通したんだろうか??というところです。

児童ポルノの規制についてこんなにヤカマしく喧々諤々されてる・・・しかも出版社というのは有る面においてその当事者なはずです。それが何で?と思わずにいられません。

誰がどう考えたって、今の日本国において、少年が成人女性のオッパイ触ってる写真がOKなわけねーだろ、と。これがOKなら、少女が成年のチ○ポ触っててもOKなのかよ、というね。全国のロリ属性の面々は大喜びでしょうが、そんなのOKなわけないよね。

エロの刺激供給にマヒしちゃってるのは、どうやら消費者だけじゃ無いようで。

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体罰とかそういうことではない。

「大阪市立桜宮(さくらのみや)高校(大阪市都島区)の2年男子生徒(17)が昨年12月、所属するバスケットボール部の顧問の男性教諭(47)から体罰を受けた翌日に自殺した問題」に関する話題が喧しい昨今です。

・・・オレは必ずしも体罰を全否定するものではありません。体罰によってナニゴトかが生まれることも決して無くは無いです。例えば自我の確立が未だな子供などに
は、善悪を「体で覚えさせる」ということも時には必要だと思っています。・・・と書くと、「その善悪の判断=体罰の可不可の基準はどーなるんだ!」という
反論というか質問が来たりするのが常なのですが、その判断基準こそがその家庭、引いてはその地域、さらには国・民族の「文化」だったりするわけですよ。
とにかく、時には体罰も必要です。誤解を恐れず書いちゃいますが、オレはそう思う。

・・・ただですね、今回のこの件、これは体罰云々じゃ無いんですよね。

「体罰によってナニゴトかが生まれることも決して無くは無い」と書きましたが、当然ながらこの文意は「必ずナニゴトかが生まれる」ということでは
ありませんでもって、今回の件は「なにも生まれない」究極的なサンプルでしょう。で、なにも生まない暴力は断固否定されねばなりません。当たり前ですが。

この教師は要するに年端もいかない少年を、恒常的にボコボコにブン殴ったりしてたってことらしいですが、そんなことでナニゴトかボジティブな事柄が生まれるわけねーだろ!と。

反撃される可能性が限りなくゼロに近い相手への暴力っていうのは非常に卑怯だ、とオレは思うわけです。

で、この教師は、それを「教育」だか「指導」だかという美名のもとで行ったわけで、二重の卑怯さを感じます。きたねぇヤローだなぁ!と思う。

この場合の「反撃」っていうのは必ずしも暴力的な事柄だけでなく、例えば、ブン殴ったりして指導したにも関わらずその選手が伸びなかったとしたら、本来はその時点で指導者としての格を喪失してしまうわけで、これもある種の「反撃」でしょう。報い、というかね。
事程左様に、それによって起こる全ての事柄について責任を負える覚悟と自負が無い人には、「体罰」の資格は無いんですよ。当たり前過ぎて書くのがバカらしいですが。

でも、今回のコノヤローは、そういった責務をロクスッポ果たしてないんですよね。「教育」だか「指導」だかといったことで昇華されてしまってますが、コノヤローはそれに伴う責務も、責任も、なにも果たしておらず、要はただブン殴りまくっただけで、結果なにも生まなかったばかりか、あろうことか一人の少年に自死を選択せさしめてる、という。こうなるとこれは単なるマスターベーションとしての支配欲を動機とした「殺人」でしかないです。教育も指導も、それに伴う覚悟も自負もハチのアタマも無く、単なる歪んだ自己満足の帰結としての、ひとつの悲しいサンプルです。

ただ・・・それでもなお、「体罰イコール悪」としてしまえるほど、人間関係ってのは単純なものでは無い、というところに変わりはありませんし、それを撤回するつもりも今のところありません。一律の方程式はそのまま成り立っちゃうほど人間関係は単純じゃない、と。

なにが言いたいかというと、今回のこの事件は、体罰、教育論に値するようなことではない、と。そんな高尚な「事件」では無い、単なるオナニージジイのバカな暴走と、それを黙って見てたマヌケなバカ大人による「犯罪」でしかないので、ね。

これで体罰「イコール」悪なんていう図式が固定化・絶対化してしまうことを、オレは憂います。今舞の件は別問題だよ、と。今回の件で「体罰」を論じるのは、ちょっと無理があるな、と思う次第です。

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