2023年1月

美空ひばりについて思うこと。

日本映画の観客動員数は1958年がピークだったそうですが、配給会社別に見ると東映が他社を圧倒、まではいかなくとも凌駕していた由。要するに日本映画人気全盛時代は同時に東映時代劇の全盛期でもあったってわけですね。

大卒初任給の調査は1968年から始まったようで、この年は30600円。ってことは高度経済成長期に入りたてな1958年当時だと、恐らく1万円にちょっと届かないくらいだったんじゃなかろうか。

そんな時代に、歌舞伎界からなんやらプロダクション経由で銀幕界入りした中村錦之助(=萬屋錦之介)のギャラは1本出演で100万だったそうです。

同時期に日本舞踊の世界からなんやらプロダクションを経由せず個人で東映と契約した東千代之介は、長年足元を見られまくって最後まで1本出演で10万だったとのこと。

まぁなんとヤクザチックな業界かと思いますが、今回言いたいのはそこんとこではなく、同時期、美空ひばりは1本出演で250万を下ることがなかったってことです。

250万ですよ。ニヒャクゴジュウマンエン。今年の大卒初任給は22万だそうですから、ごく単純に換算すると、1本映画出演するたびに5500万になりますか。しかもこの時期のひばり、東映だけで普通に年間10本以上出てますよ。つまり映画だけで年間最低5億5000万。ゴオクゴセンマンエンですよ、映画「だけ」、で。

でもって、ハッキリ言ってこの時期のひばりにとったら映画出演は決してメイン仕事ではなくあくまで「余技」で、新宿コマやらでのメイン公演に地方巡業公演、テレビ出演にトンでもない数のレコード発売、と、ちょっと想像できない仕事量、つまり想像を絶する収入があったはず。

そういう状況が、どんなに少なく見積もっても最低10年は続いてたはずで、また千昌夫やなんかと違って、株で損したとか不動産でズッコけたとか、マネジャーに騙し取られたとかいう話は聞きません。

ヘタしたら、今の貨幣価値に換算してトータル1兆円近く稼いだんじゃないかと思うんですよ生涯で。8歳でデビューして、結局収支が赤字になるような年度の無いまま亡くなったはずですから、イッチョウエンって数値もあながち、じゃないですかマジで。

なのに、死後、なんで借金なんかが残る状況だったのか。

ここがオレとしては不思議でなりません。

死後20有余年経過した最近になって、メディアでは某ヤクザの某組長との関係を半ば美談みたいなノリで採り上げるようになりました。「蜜月」とか言ってね。

「蜜月」でもなんでもない。ただひたすら「金づる」だったんじゃないのかね。母娘ともども丸め込んで持ち上げて。

なんといいますか、そういう美空ひばりの悲劇性について、もっと語られていいんじゃないでしょうか、とオレは思うのです。

死後20有余年、いまだにCG化させられたりすることに対して、山下達郎大先生は某FMラジオ番組でただひとこと「冒涜です」とおっしゃってました。

これも「悲劇」の一環ですよ。

ついでながら、いつのまにか代表曲が「川の流れのように」ってことになってるのも「悲劇」だと思います。ハッキリ言って美空ひばりのキャリアにおいてこれは凡作のグループに入ります。タイトルからしてこの作詞家らしいダサさと臭さに満ちております。「川の流れのように」ってなぁ。もうちょいでもヒネらんかい!と。

死してなお、作者の権威づけに利用されている、としか思えません。まだ利用され続けておられるのか、と。

悲しむべきことです。

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食について。

最近めっきり色が細くなったなどと書きましたが、アレを書いた途端になんだか食欲がめっきり旺盛になってきました。こういうのもマーフィーの法則というのでしょうか。食欲旺盛、ここ数日なにをどんだけ食って飲んだか、列記しても詮無いっていうかオレ自身がイヤんなっちゃうのでやめますが、とにかく自分でもどうかと思うレベルです。

で、その当然の帰結として、太りました。いや、現在進行形で的面に太っています。ドカ食いするとすぐ太り、控えるとすぐ痩せるという、これは体質の問題ですかね。

減量中のボクサー、計量をパスしてから試合までの数時間で普通に5、6kg、昔の韓国人ボクサーなんかだと掛け値無しで10kg以上増量してたそうですが、そこまではいかずともオレも似た感じです。食ったものがすぐ血肉になる、食わなきゃ食わないでビビッドに血肉の量が減るというね。

食べなきゃいけないのに食べられない、という方も多くおられる由。いまのところオレはそこに関しては大丈夫です。

そして睡眠欲も旺盛というか、ここ数日アベレージ11時間くらい寝てしまいます。なんでこんなに寝ちゃうのか自分でも意味不明です。

大学の同級生で、結構重症の(オレ比)不眠症という方がおられました。最後にぐっすり寝たのがいつだかもう思い出せない、とかって言ってたな。睡眠導入剤を処方してもらってもすぐ効かなくなっちゃうんだとかで、どんどん強い薬になっていくという。絵に描いたような悪循環ですが、自分ではどうにもならない由で、ああいうのは辛かろうて、と。

ことほど左様に、世の中には、食欲がない、もしくは食が細いとかで悩んでおられる方が多い由。

また、不眠で困ってる方も大勢おられる。

そういう方のことを考えたらオレは幸せ者です。

そういうわけで、オレはそろそろ寝ます。

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和装について。

この正月はずっと和装で過ごしました。なんでかって楽だからです。こんなに楽なものだとは思いませんでした。肩は凝らないし動きやすいし。

七草も明け、もう洋服に戻りたくないと思いました。っていうか現在進行形でそう思っています。

行きつけの喫茶店や焼き肉屋さんによると、別に和装で来たからってウチとそしてはどうだってことはないですよ、っていうか食いこぼしに気をつけていればどんなカッコでもいいんじゃないですか、とのこと。でもそういう場所ならいいかもしんないけど、打ち合わせだとか撮影現場だとかに着物&羽織で行ったらやっぱし妙だよなぁ、ってことで、仕方なく、耐え難きを耐え忍び難きを忍び、涙を飲んで今は洋装に戻っています。でもぶっちゃけてしまうとどこにも出かけないようなときはずっと和装だったりします。事務所内でどういうカッコでいようとオレの勝手なのであります。

和装はホントに楽なのでオススメです。

ただ、角帯の結び方がちょいとメンドいっていえばメンドいかもしれません。

まぁそれも慣れなのですが、これはなかなかいい感じに慣れません。

小津「小早川家の秋」を観ますと、中村鴈治郎が囲ってる女のとこに出かけるのに、家人の目を盗んで、孫と隠れんぼなどしつつ、もういいかい、まぁだだよ、とか言いながらサッとお出かけ用の着物を箪笥から出し、廊下をウロウロしつつチャッチャと角帯を結んでそそくさと玄関を出る、ってシーンがありますが、まぁその所作の美しいことね。美しくて手際が良い。ここまで慣れるのは一朝一夕では無理無理、やはり相応のキャリアが要るな、と思ったものです。

キャリアといえばですね、和装ってのはそもそもオッサン・オバチャンが基準なのですよね。洋装は、これは明確に若者基準ですが、和装は体型が崩れてしまった状態が基準なのです。若くてスリムな方が着るときは、わざわざタオルやなんかをお腹に巻いて、中年太り状態を作らないと似合わない、という。

ついでにいうと江戸時代のチョンマゲね、あれは最初からハゲてたらわざわざ月代剃らなくて良いわけでね。ああオレも早くオッサンになってハゲて月代をいちいち剃らんでもいいようになりたいなぁ、と往時の若者は切に思ったことでしょう。

年長者が尊ばれる社会というのは良い社会ですよ。

社会全体が年長者を尊ぶ体制になっていれば、低出産率及び高齢化社会の問題もかなり解決しますよ。なんで若い世代が子どもを産まないかって、この先自分がオッサンオバチャンになり、その先に至るまで子どもをマトモに育てられるかどうかの不安と、産んだ子がオッサンオバチャン以降になる時代への不透明感、っていうのが大きな理由なんじゃないですか。これだけとは思いませんが、要するに社会として年長者が尊ばれてないさまを潜在的に見ているからですよ。

まずは和装回帰するところから始めますか、ラクだし。

和装はオススメです。単価は高いですが、そうそうムチャしなけりゃ結構長持ちするっぽいので、長い目で見たらリーズナブルですよ。ってモノにも依りますが

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街について。

よく考えたら昨年末から制作の案件を6本抱えたまま新年を迎えたのでした。ひとつかふたつくらいは年内で終えられるかと思ったのですがそうはいかなかった。これは弊社の問題ばかりではなく、カレンダー的な巡り合わせの問題だったり、なんだかんだでコロナ禍の故だったり、まぁいろいろ。コロナ禍に関しては、それだからこそ発生した案件もあり、なにしろ、いろいろ、です。

そんなこんなで昨日も都内をアチコチ徘徊してまして、で、これはもう実名を挙げて差し支えないかと思うのですが、墨田区の京島だとか立川だとか鐘ヶ淵のあたりってのは、まぁスゴいですね。

なにがって街並みの昭和っぷりが。

この令和の世、木造二階建てで屋根の上に物干し台のあるお宅なんてそうそうありませんよ。

2011年の3月1日は東京も震度5弱ほど揺れたはずですが、それでもアレは耐えたんだなぁ、と。

警察署の生活安全課などでは、空き巣やなんかが多いから玄関のカギは2つつけましょうとか盛んにおっしゃってますが、まだまだガラス扉の戸建住宅も多いです。こうなるとピッキング対策もハチの頭もありません。最近は電線etcに地下埋設も進んでいる由で、すっかり電信柱も少なくなっているようですが、あのあたりはオレの記憶が確かならば3年くらい前まで木製の電信柱が立ってましたよ。さすがに現役ではなかったようでしたが、とりあえず立ってました。押尾川部屋のあるあたりですね。墨田区の。

弊社の以前の事務所は東向島にあったのですが、よくデカいスチルカメラ持った方が複数人で写真撮って歩いておられました。聞くと、失われつつある昭和の雰囲気を残す路地や建物を残したい、という御趣味であられる由。現にそこに住んでるオレとしてはちょっと複雑な心持ちだったりもしたものです。

東向島を後にしてもう17、8年経ちまして、あのあたりも新築建売戸建住宅が増えている由。それに伴って軽自動車でギリギリだった道幅も少しづつ広くなってきています。街並みが変わる寂しさもありますが、これは正しい成り行きです。消防車も入れないような道はできるだけ無い方が良いし、空き巣やなんかの危険はできるだけ避けなければなりません。

京島あたりだとまだ平屋の長屋などもそこそこ残っているのですが、リノベーションによるそんな建物を活かしての街づくりっていう計画も進んでいるとか聞きました。板張りトタン屋根の長屋建物にカフェやら個人事業主用事務所が入ってたり、とか。

なんというか、良い具合に変わっていくといいですね、と。

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またコロナ禍について。

今の小・中・高校生はコロナで遠足にも修学旅行にも行けなくてかわいそう、とよく言われるのですが、これは超暴論だと我ながら承知はしつつ、そこまでかわいそうでも無いよな、とぶっちゃけオレは思うのです。10年後か20年後か、コロナ禍のアレコレがすっかり風化して「歴史エピソード」にまでなった際、リアルタイムのガチ当事者としてそのエピソードを語れるっていうのは、ある意味うらやましくさえありますよ。

経済的な打撃を被ってたりしたら話は別ですが、そうでない小・中・高校生に対してオレは言いたい。キミたちは「おいしいネタ」を授けられた世代なのですよ、と。

オレが今中学生だったら、きっとマスコミだとか先生だとかの大人に対して、

“早くコロナ前の生活に戻りたい”

だとか

“修学旅行に行けなくて悲しいです”

かなんかを、いかにもしおらしく言うと思うのですが、きっとその心中では“しめしめ!”と思ってます。そうに違いない。他の世代の経験していないことを経験できている!というカタルシスをどこかで感じてると思います。

繰り返すようですがコロナ禍によって経済的な打撃を被ってたりしたら話は別ですが、そもそも遠足や修学旅行の愉しみっていうのは、それが「非日常」だからって部分もあるじゃないですか。コロナ禍っていうのはそう言う意味で究極の「修学」旅行ですよ。

もちろん相応のトークスキルは必須ですが、10年後か20年後か、コロナ禍を知らない世代の連中に混じっての飲み会なんかあったら、このコロナ禍におけるアレコレは格好のネタになるはずです。オレの世代にはそういう大ネタは無いので、そういうネタのある世代はとりあえずうらやましいです。

逆に、今の小・中・高校生は、このコロナ禍をネタとして昇華できるくらいの逞しさを持ってもらいたいものです。

「戦争を知らない子どもたち」って歌がありあますが、あれは戦争体験の無い第一世代が、その上の世代からことあるごとに“おまえら戦争も知らないくせにナマ言うな!”って言われまくったあげくに、そのフラストレーションから生まれた歌ですよ。

“おまえらコロナも知らないくせにナマ言うな!”まで言う必要はないですが、せめて「面白大ネタ」としてコロナを語れるくらいの逞しさは有って良いですよ。よろしく頼みます。

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コロナなどいろいろ。

今日も今日とて実在してるかどうかもわからない方々から大量の「友達申請」が届いています。さすがのオレサマも逐一の「承認」作業に疲れました。オレが悪かったです。どうかもうご容赦いただきたい。

こないだ新型コロナに関してちょっと目にした記事ですが、小学5年生だかの男の子と映画鑑賞に行ったお母さん、ノーマスクで行ったら館の係員に注意され、ウチはなにがどうあってもマスクはしないさせない、ってことですったもんだが発生、その末に男の子が、お母さんもういいよマスクしようよ、と泣いてしまい、それに対して、

“ウチの子を泣かせたマスク強要社会を私は許さない!”

と憤慨、という。

似たような話が東日本大震災のときにもありました。こちらは、学校給食は放射能汚染されてるからウチの子だけは給食拒否、持参の弁当以外食べさせない!とやってたら、ある日小学生の娘が、どうして私だけ給食食べたらダメなの?私もみんなと一緒に食べたい!と泣きながら帰宅、そんな我が子にお母さんは、

“ごめんね、あなたを守ってあげられるのはお母さんだけなのよ”

と。

こういうのは悲しく切ないですね。悪意がどこにも存在せず介在せず、しかし確実にどこか間違っていて、且つ確実に本来最も守られなければならない弱者が泣くことになる、という。

黒澤「生きものの記録」のジィさんもこんな感じっちゃそうでしたので、要するに昔々からのテーマなわけですね。

こういうのはおしなべて「死の恐怖」に起因することです。とどのつまりは全てその問題。目前に迫る具体的な「死」に対するリアクションとして、これはきっと正しいものです。丸腰で相対するときっとみんなこうなる。人間とはきっとそういうものなのです。ガタガタいわんとマスクすりゃいいじゃんか・食べればいいじゃんか、とすぐに思ってしまうオレなどよりずっと人間らしい人間なんだと思う。

人生とは全て死に至る旅で、それを憂鬱なものでなくするために、我々には「気晴らし」を見つけて目を逸らす以外の選択肢は無い、とパスカルは「パンセ」に書いてます。

まぁそういうもんです。世の中にはいろいろありますが、取り急ぎオレには世の中のそういうことより、今日の雨に対して傘が無いことの方が問題だ、と。人生の達人とはすなわち気晴らしの達人である、というわけですね。

50歳を超えると、さながら灰汁のようにさまざまな気晴らしテクニックが身に付くものです。

鉄壁のそれを身につけたいと思います。

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食が細くなった件。

とにかくここ数年、食が細くなったなぁ、と思う。1回の食事での摂取量がめっきり少なくなりました。

もう20年ほど通ってるラーメン店がありまして、ここは替え玉を3回すると海苔、4回目にはチャーシューをサービスしてくれるのですが、ここ数年チャーシューまで行き届きません。海苔どまりでもう満腹。

通い初めの頃は2周目のチャーシューまで普通に行ってたんだけどなぁ。

食が細くなったなぁ、という実感は、摂取量が数値化される回転ずし店においてより容赦無く突きつけられます。

かつてのオレは「回転ずし」に対してある種のこだわりを持っておりました。

即ち、何はさておいても、まずは16皿食べる。

でもって、16皿完食した時点での体調etcで、そのあとどれだけ食べるか決める、というものです。

言い換えると、要するに16皿食ってからがホントの食い始め・スタートだった。ああ、もう16皿食ったか。じゃあカウント開始するか、みたいな。

さらにさらに言うと、まず16皿食わないと空腹にさえならない、というのがより正確でして、16皿食って初めて一般的な空腹状態になる、という。

なんで16皿なのかは、なんか理由があった気がするのですが覚えてません。なんかしらんけどとにかく16皿が基準だった。

去年の秋口だったか、久方ぶりにスシローに行きました。

気の向くままに皿を取って、食って、ああそこそこ食ったなぁ、もうハラいっぱいだ、となったところで皿の数を数えてみたら、16皿だった。

ああそうか、オレは老いたのだ、とシミジミ思いました。思わされたというべきか。ここ数年スシローは明らかにシャリ量が減りました。それでいてこのありさまです。

(関係ないですがスシロー南砂店はどうしてああ常に混んでるんでしょうか。曜日や時間帯に関わらず、いつ行っても50〜80分待ち。ほど近くの葛西店などはそこまで待たされません。わけわがからん。)

今日はどういうわけか起きてからずっと眠いのです。正代が負けたからでしょうか。

とにかくそろそろ寝ようかと思います。おやすみなさい。

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モニュメント。

この7日に、フィルムが散逸し失われた名作とされていた「忠次旅日記」のフィルムがどっかの田舎の蔵の中かなんかから出てきて、フイルムセンターだかどこだかでの発見記念上映会の際、某評論家が張り切っていち早く会場入りしたら既にパイプ椅子に座ってる先客がいて、誰かと思ったら萬屋錦之介だった、って話を書きましたが、これに出演している伏見直江、彼女は江東区は門前仲町出身なのです。門前仲町1丁目、赤札堂の向かいの、今は歯医者になってて、その昔には辰巳書房があった場所、ここはそのまた昔は深川座なる芝居小屋だったそうで、そこの楽屋で生を受けたとのこと。旅役者だった父親が落ち着いた先がここで、そこで生まれ、やがて子役として舞台に立つようになったのがキャリアスタートだそうです。

伏見直江っていったら戦前の日活の大看板幹部女優ですよ。その芸能活動のルーツがここ江東区にあるってわけですが、当地、それを示すような碑があるわけでもなきゃ看板が立ってるわけでもありません。もはや面白くもナンとも無い「門前仲町」という街の、その面白くもナンとも無さの象徴のような面白くもナンとも無いビルがただ建ってるだけです。

また、ここから徒歩数分の場所が小津安二郎の生誕の地でもあります。いわずとしれた巨匠、去年発表された「史上最高の映画100選」でもこの巨匠の手による「東京物語」が第四位でしたね。ってこのランキングは当然一位であるべき「七人の侍」が二十位だったり、そもそもオレとしては「東京物語」は小津作品の中ではさほど上位ではなかったりするので、その権威には私的に疑問もありますが、とにかく我が国の誇るべき巨匠であることは間違いないでしょう。

でもこの生家のあった場所には、ここが小津の生まれた場所ですよ、っていう看板が歩道橋のたもとに立ってるだけ。胸像があるわけでも出身地オリジナルグッズ屋が建ってるわけでもありません。

まるっきり関係ないですが大杉栄と伊藤野枝は亀戸三丁目に居住していた時期があります。

これは有名ですが浅沼稲次郎は区内の同潤会アパートに住んでおられた。

日本画家の伊東深水は森下出身で、「赤ひげ」で最初に死んじゃう六助役で知られる藤原釜足は区内の印刷屋さんのセガレで、奥さんの尻に敷かれてるダンナ役をやらせたら世界一の松竹・斎藤達雄は佐賀町の米の仲買人の息子です。

ついでながら麻原彰晃はオウム神仙の会を興す前にやはり区内大島に住んでたらしいです。単なるインチキ漢方薬屋だった時期の一時期だけらしいですが、そんなこともあってオウム真理教の設立にあたって、多少の土地勘のある江東区に登記状の本拠地を持ってきた、という説もある由です。

大杉栄や麻原はともかく、上記いずれについても生家跡に記念碑があるでもなく、江東区とのつながりに関する文献が豊富にあるわけでも無く、小津だけは申し訳程度な「ここらで小津が生まれたっぽいよ」ってだけな記載の看板がありますが、それっきりです。

あとはなんもない。皆無。

江東区は上記した以外にも、いろんな人やものごとの「ゆかりの地」だったりするのですが、どうもいずれについても扱いがよろしくない気がします。それでも数年前から区の施設でも「洲崎パラダイス・赤信号」を上映するようになりましたから、まぁマシにはなってきてるのかもしれませんが、いやぁ、まだまだ、ですね。

こういう事柄を大事にしたいと、文化は育ちませんですよ。

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facebookの友達申請が大量にきている。

今年になって、大袈裟でなく15分ごとにfacebookの「友達申請」が届きます。iPadの通知が申請で埋まっています。スクロールしてもしても「申請が届いています」がひたすら並びます。どんだけオレは人気者なんだろう。どなたも似た感じのプロフ写真で、また総じて機械翻訳丸出しっぽい釣り書きなのが気にかからないでも無いですが、そういうことは気にしちゃいけない。もうオレは怒った、こうなったら全員に「許可」出してやる、と意気込んだりしたりもしましたがとてもとても間に合いません。許可ボタン押してるそばから通知が届く。またFBからホントに許可していいの?ワシャ知らんよ?みたいなメッセージも届いたりしますが、オレにも意地というものがあるのです。忍の一字です。

そういえば十数年前、亀戸のコインパーキングに停めてた我が愛車のワイパーのところに、要約すると自分は20歳の女性だがカネが無いから自分の恥ずかしいビデオをいくらかで買ってくれ、という手書き(をコピーした)A4の紙が挟まっていたことがありました。義を見てせざる勇無き也ということで指示通りに手順を踏んだら、業務用のフタの茶色い、また信じられないほど軽量なVHSが3本ほど送られてきまして、再生したら砂の嵐。同封の手紙に、やっぱり最初は恥ずかしいからこれでカンベンせよ、次はガチで送る、とありましたので、素直に従ったらナシのつぶて、ということがありました。かくしてオレはまだ見ぬうら若き金欠の女性をひとり苦界から救ったというわけです。某NPOの方よりよっぽどマシな行いをした、と、

オレがそうこうしてるところで、昨年末に行きつけの焼肉店にいきましたらマスターいわく、こないだTさん(中学の同級生)きましたよ、熟女パブの女性5、6人連れて。たいそうおモテになるんだそうですよ、とのこと。ああ彼もまた苦界の女性のために尽力しておるのだなぁ、とオレはひとり彼を想ったのでした。

斯様な次第で、バーチャルの、実在するかどうか不明な皆さんらに気を取られつつ、昨年末はリアルな方の年賀状作成がとうとう叶いませんでした。ひとえに多忙に依るもので、要するにこちらの都合。慚愧に絶えません。面目ない限りです。来週「寒中見舞い」ハガキの印刷が上がってきます。

ということで今日はもそろそろ寝ます。おやすみなさい。

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実るほど‥‥‥。

「実るほど こうべを垂れる 稲穂かな」とか言いますがこれはホントです。都知事2期目くらいの頃だったと思うのですが、石原慎太郎の取材撮影に行ったことがありまして、Gパン&シャツ姿で指定の場所に入ったら、当人が先んじて立ち上がり、オレに一礼しましたよ。

「今日はよろしくお願いします(ママ)」

って。

約束の時間の5分前に行ったのですが、そのまた5分前にはもうおられました。もっとちゃんとしたカッコで行きゃよかったと思ったものです。別件収録の最中に飛び込みで入った案件だったのでね。30分弱くらいの収録でしたが、終わった時も「おつかれさまでした。ありがとう」と言われて見送られました。

なにしろ「実るほど……」なんだなぁ、と思うと同時に、巷の噂なんてものはアテにならんのだな、と思いました。痛切に。

でもって、昨年は撮影スタッフとして某区の区長のインタビューを撮りました。

13時からの約束でしたが、秘書だかなんだかの方に促されて区長室に入ったのは13時40分。

で、開口一番、

「 さ っ さ と 済 ま せ て く れ よ 」。

……まぁエラい違いだなぁ、と思ったですよ。痛切に。

こういうことは業界etcに限ったことじゃないのですね。どっかの田舎の蔵の中から「忠次旅日記」のフィルムが出てきて、フイルムセンターだかでの発見記念上映会の際、確か佐藤忠雄だと思うのですが、いち早く会場入りしたら既にパイプ椅子に座ってる先客がいて、誰かと思ったら萬屋錦之介だった、って話もあります。「蒲田行進曲」の銀ちゃんのモデルは錦之介っていうか東映全盛期のにおける錦之助だそうですが、そんな面もありつつ、自身の仕事に対しては殊勝であった、と。

まぁ、ナンですよ、オレもそうありたいと思います。

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