http://www.news-postseven.com/archives/20120313_94151.html
だそうです。
それ自体が生業のタネである以上、雑誌でもTV番組でも、常に「センセーショナル」を目指すのは必然、もっというと常に目立った存在でなきゃ存続そのものがアッという間に危うくなっちゃう、というのがこの業界です。雑誌不況の折から、この傾向は増すばかり、ですね。
ちょうど去年の今ごろですが、震災と原発の爆発に対して、コンビニに並ぶほぼ全ての雑誌類の見出しはこの「センセーショナル」でした。放射能汚染!日本壊滅!etc・・・と。
ここぞとばかりの、ソレ行け!ヤレ行け!煽れ!煽りまくれ!という編集デスク氏の怒号が聞こえてくるようでしたね。
その結果、前述の通りコンビニ、書店etcの書棚はその手の見出しのオンパレードと相成ったわけですが、そんななか異彩を放ったのが週刊ポストでしたね。あの例の「日本を信じよう」という見出しの号。
あの号のポストはバカ売れだったらしいです。これも前述の、「センセーショナル」見出しの代表格だったAERAが叩かれまくったのと対照的な評価
だった記憶があります。結果的にこの号のポストは、ある意味逆手のセンセーショナルであり、且つなにより前述したような「目立った存在」としてのスタンス
を期せずして(期してたのかもしれませんが)得た、というわけです。
で、なんだかなぁ、と思ったのはその翌週です。その前週まで煽りまくってた雑誌etcも、こぞってその論調が「日本を信じよう」系になっちゃってました。節操が無いなぁ、と思いました。
これはマズい!この論調の方が売れるのか!・・・とでも考えたのでしょう。確かに数字としてはそう解釈できますからね。
要するに雑誌としてのオピニオンなんてなものはハナから存在せず、ホントにただ売れりゃいいってだけの価値観しか持ち合わせないんだなぁ、と。ウスウス感じてはいたものの、ここまでエゲツ無く且つわかりやすいものだとは思いませんでした。
このことはなにも雑誌etcのメディアに限ったことではなくて、記事中にあるような「エセ学者や市民団体」も、根っこはおんなじなんですよね。
例えば、どちらかといえば親原発寄りのスタンスだった学者センセイが、すっかり反原発の旗頭化し、原発・放射能関係の著作を奮発してたりしてね。
某センセイが「こんなに怖い放射能!」という類の著作の表紙でデカデカと満面の笑みを見せているのを見つけ、ひどくゲンナリした記憶があります。
「市民団体」もしかり。ワレワレがゲテモノ扱いから脱却できる千載一遇のチャンスであるぞ!てなもんでしょう、ぶっちゃけた話し。
記事中、
> 科学的根拠もなく、危険を煽るエセ学者や市民団体などは、それでもまだ被災者をイジメ続けるのか。
とありますが、100歩、いや1万歩くらい譲って、ある意味この「危険を煽る」ってのは彼等の仕事・生業のタネそのものだったりするわけなので、まぁこの際それは許・・・さないけど、とりあえず置いときましょう。直接的な生殺与奪の権利はオレには無いかんね。
で、より悪いのは、そういうのを無意識、無自覚にも信じてしまうワレワレですよ。
ちょっと考えたらor調べてみたら、少なくとも「なんかおかしいなぁ・・・」くらいにはすぐ到達できるはずです。それをしないってのは、これは罪、かもしれないですよ。
与えられる事柄を素直に受け入れるってのは、時には美徳ですが、反面、大罪にも成り得ます。まずは自分のオツムでもって考えることから始めたいものです。
ところで、先日某大手食材量販店に行きましたら、インゲンですが、ひと袋170円のと360円のが並んでましてね。
確か170円の方が200gで、360円の方が150g。
この値段差は何故?モノスゴい高級品だったり?と思って見てみたら、170円の方が福島産なのね。
当たり前ですが170円のをいくつか買って帰宅しました。で、さっき全部食ったわけですが。
なにが言いたいかというと、捨てるくらいならオレにくれよ、と。
食ったこと無い人にはわからないんでしょうけども、福島のお米とか「ゆべし」や薄皮まんじゅう」、これは猛烈にウマいんだよ。
というわけで、キャプチャは明日やることにして、オレはもう寝ます。