高校時代あれほどハマり、そのあまり自分だけで収められず、当時隣の席だった舎人のガソリン屋のムスコ氏にまで波及させた我が太宰熱でしたが、あれからン十年、改めて諸作品を読むと・・・いや、読めないのですね。気恥ずかしくて読了できない。
奥野健男は、初老の域に達してなお、太宰は人間失格を書くために小説家になったと言っても過言じゃない、みたいなことを堂々と書いておられましたが、当時の氏よりはるか若年、未だ中年域の段階であるオレは最早そんな感想を抱くはるか以前のレベルで、独特の文体もハナについて仕方なくなってしまいました。
要するに「行き過ぎた露悪趣味」という感じでしか捉えられないでおります。読んでるこっちが恥ずかしくなる、という感じのが多いです。「晩年」なんかその最たるもので、これは要するに重症の中二病患者の手になるものですよ。そうじゃなかったらこれはなんだ、という。まだ「畜犬談」なんかはいい感じに枯れてて良いのですが、初期作品はムリ、無理ね。
良く言えばうまいこと中二病から脱却できたとも言えますが、悪くいやぁ感性が老化し鈍麻してしまった、ということかもしれません。
でもって一番よくないのは、この件に関しては自分自身恐らく後者だと思うのですが、それでも別にヘイチャラでいられる、というところですね。実にタチの悪いオッサンです我ながら。当時こういうオッサンにだけはなるまいと思ってたはずなんですが、ものの見事に「太宰を鬱陶しがる忌まわしいオヤジ」になってしまいました。いやはや。
U田くん、申し訳ないね。当時さんざん勧めておいてこれだよ、という。
ただ、「津軽」だけは別ね。太宰の代表作品は?なんて問いに対して、(奥野氏も含め)たいていの人は「人間失格」を挙げ、ちょっとスノッブなヤローは「晩年」を推し、普遍的なその文学性云々ってことで「走れメロス」をピックアップする人も多くおられますが、いいオッサンになったオレとしては、「津軽」が最高傑作である、となんの疑問も猶予もなく思うのです。
ちなみに、当時愛読していて、今再読しても変わらず面白いものにはどんなのがあるか。
これがですね、自分でも少々意外なのですが、太宰以外は大抵変わらず堪能できるのですね。
とはいうものの堪能の仕方に多少のズレはあります。例えば丸谷才一の「男のポケット」なんかは往時も面白く読んだもののちょっとシブ過ぎ地味すぎかなとか思ってたのですが、今としてはシブ過ぎず地味すぎずイイ感じです。吉行淳之介の諸作品などはぶっちゃけ当時読み取れなかったところなんかもどうにかこうにか理解できるようになった、という明確な自覚があります。
ただ吉行作品に関しては、まだ読み切れてない感じがあります。してみると今のオレは、太宰を堪能するにはオッサン過ぎ、吉行作品を愉しむには青二才過ぎる、という、非常にダメなところにいるらしい。
で、繰り返しになりますが、なにしろ一番ダメダメなのは、別にそれでもヘイチャラである、というところですね。吉行作品の掘り出し物なんかが転がってたりしないか、とAmazon内をサーフィンしていながら、「応募即撮りH系さな写真集」なんてのがフト出てくるとほぼ無意識にとりあえずクリックし、なんだこのブ○○クな女は、クリックに所要した時間を返せ、などとブツブツ一人で毒づいているオレがいます。
そういうわけで、kindle生活もまぁ順調な今日この頃です。