杜甫と芭蕉とキーンと小津。

ちょっとマニアックというかメンドくさい事柄になるかもしれませんが、杜甫の「春望」中の
 
「国敗れて山河在り、城春にして草木深し」
 
という一節、これを芭蕉は「おくのほそ道」の中で、
 
「国敗れて山河在り、城春にして草青みたり」
 
と書いてんですよね。
 
「草木深し」と「草青みたり」じゃ意味がエラい違いなわけですが、この件について我が母校(確か高校)の先生は、要するに芭蕉がなにかの理由で「間違った」のだ、と言ってた。
 
当時は、へぇそうですか、って感じで思考停止状態で受け入れてたのですが、良く考えたら間違えるはずが無いので、オレ思うに芭蕉が意図的に改編したんだと思う次第です。
でも、じゃあなんでわざわざ改編したんだか、オレには皆目わからずにいます。
 
そもそも「おくのほそ道」ってのは、どうやらオレなぞが簡単に触れちゃいけない深淵なるものでありまして、例えばドナルド・キーンはこれを翻訳する際、いきなりタイトルからつまづくんですね。
即ちまずこの「おく」をどうしたらいいかわからない、と。
 
で、キーンは結局「The Road To OKU」としました。ここでの「おく」は「OKU」としか表せない、というわけです。本人がそう言ってんだからそうなんでしょう。
 
以上、今kindleでキーン氏の自伝を読んでるのと、弊社の至近に芭蕉庵があるのと、上記の「草青みたり」のくだりは平泉訪問の際に書かれてるわけですがこの平泉には以前仕事で何度となく行ったことがある、という、複合的な理由で突然諸々思い出した次第です。
 
ちなみに「芭蕉庵」とは要するに芭蕉の家のことなのですが、ザックリ江東区のこの辺りにあったらしい、ってことだけはわかってたものの、ながいこと具体的な位置が判明せずにいたのですね。
門人の書いたものによると、芭蕉はカエルが好きで、庵には石のカエルの置物だかが有った由。でもって戦後になって江東区某所を開発すべく掘り返したところ、年代物の石のカエルの置物が出てきた、という。
その発掘場所、現在は「芭蕉稲荷」として祀られてます。近くには芭蕉記念館なるハコモノもあります。さらにそこから徒歩数分のところに、かつて広重が描いた万年橋もあります。普通にみんな通ってる現役の橋です。
 
全く関係無いですが、そこの近所には、小津安二郎生家跡もあります。
正確に言うとその旨の書かれたカンバンが立ってるだけで、正確な位置は不明な由。
カンバンにも、ザックリこのあたりに有ったらしいよ、としか書かれてません。
 
芭蕉の家の正確な場所がわかって、なんで小津の家がわかんねえんだよ、とオレは少々憤っている次第です。

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