「アナと雪の女王」観てきました。

思い立って深夜になって「アナと雪の女王」観てきました。出先の至近でやってたので、フト思い立って、という感じで。
人気話題作だとどこか小馬鹿にして手を出さないような俗物はオレとしては忌み嫌う対象で、いわゆる話題作だろうがマイナー作であろうが拘り無く観るのがモットーだったのですが、振り返るにここ数年は無意識のうちにそんなヤカラになってたような気がします。昔はE.T.だろうがフラッシュダンスだろうが戦メリだろうが自分のモノサシだけの判断でなんの拘りも衒いも無く観に行ったじゃないか、こんなことじゃいけないなぁオレ、と思い知らされた作品でした。いやぁ、これはヒットしますわそりゃ。食わず嫌いはいけません。
考えてみれば極めてシンプルな、ある意味不躾なところさえある当作品ですが、そんなことにはお構いなしに魅せてしまうってのは、これは太宰の言う「才能の巨腕」というやつでしょうか。
 
いつだか「レ・ミゼラブル」観たときにも感じたのですが、アチラの方々は実にうまいこと己の宗教世界を活かしきるなぁ、と思います。
言い方を変えると、誰も彼も自らの宗教を意識して暮らしてるんだろうな、と思う。いろんな人種が共同生活するにあたって、宗教というものが貴重な共通価値観として機能しておるな、と感じます。
 
たちかえって我が国ではどうかというと、このあたりがなかなかうまいこといってない感じがあります。なかなか作品の中に宗教が生かされてない気がする。
外国人記者クラブのみなさんいわく、ニホンジンほど信仰心の強い国民はおらない、とのこと。だとすると思うに我が国のそれは各々の無意識層にまで浸透しきってるだけに、なかなかあえて具現化しにくいのかもしれません。宮崎パヤオ氏が「もののけ・・・」や「千と千尋・・・」でちょっとだけ試みてるような感じもありますが、当作品のようにその部分がそのままエンターテイメントの主題にはなってませんね。
まぁこのことは、どっちが良くてどっちがダメってな話じゃないですけども、なにしろ当作は(も)、実にその辺がなんの衒いも躊躇いも無く表現されてますな。汝の隣人を愛せよ、右のホッペタを殴られたら左も差し出せ、です。そしていきつくところはアガペーなわけですね。
 
ところで某サイトでのレビューをみるに、「期待外れ」ってな意見も散見されます。思ってた展開と違う、オレの考えるディズニー映画はこうじゃない、というような。
まぁそれはそれでひとつの意見ではあるのですが、私的には、事前に想像してたストーリー展開と違ってるからこそ面白いんんじゃねーかよ、とも思えます。予定調和じゃないとイヤだ、ってのはいかにも狭量だねぇ。
 
自分の器の範囲でしか作品を愉しめないってのは悲しいことです。器を広げてくれるのが「佳作」というものですよ。当作は、特にお子さんにとってはそういう意味で最良の「佳作」だと思います。

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黒澤映画音楽についてちょっとだけ。

黒澤の「赤ひげ」において、佐藤勝はハイドンやらブラームスやらから盛大にパクりまくった、などという不埒不遜な見解に対して、今オレは大いに憤っております。
ただまぁ事情を知らなかったらそう考えてしまうのも宜なるかなで、要するに「赤ひげ」内の、例えばメインテーマは完全にブラームスの交響曲(何番だかは忘れた)だし、長坊が出てくるテーマはハイドンの「驚愕」(正式名称は知らない)にクリソツです。それはまぁ事実そうなんで、そこのところには抗いません。
でもね、と。
 
有名な話ですが、黒澤は作曲家に発注?する際、例えば「ベートーベンの第○みたいな曲を」というようなことを言ってきたそうで、さらに確かこの「赤ひげ」のときは、実際にベートーベンの第九だかに合わせて編集した映像素材をみせて、こういう風にしたいんでよろしく、と言い放ったとか。
初めてこのエピソードを知った際、オレは引いた。引きました。ドン引きでしたね。逆の立場だったら顔面蒼白茫然自失、恐らく怒りも忘れて忘我の境地、です。
少しでも、単なる収録物ではない「映像編集」をやったことのある方なら、これがどんだけムチャな要望かおわかりになると思う。音楽の旋律・小節に映像を合わせてつないで、それでバッチリだってんなら、もうその曲を使ってもらわなきゃどうにもなりません。ちなみに武満徹は「乱」だかでやはりこれをやられて、「オマエとは金輪際仕事しないぜ!」となった由。そりゃそうでしょう。さすがにやってられませんこれはね。
 
で、こんな想像を絶するムチャ振りに対して、よくもまぁ佐藤勝はこんな名曲をモノしたもんだなぁ、と感嘆する次第です。スゴすぎます。
そして、作ってる立場のことも考えずに、安易にパクっただナンだというヤツに憤るのです。
 
 
ということで、明日はいよいよ納品です。

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太宰(フォロー編)

昨日は編集の修正したり打ち合わせに行ったりして疲労困憊しており、またとにかく眠かったので、その勢い?にまかせて太宰について、やれ中二病だ、恥ずかしくって読めたもんじゃない、などと思わずボロクソ書いてしまいましたが、その後12時間近く寝てさらにユンケルもキメて復活した今になって振り返るに、それはさすがに少々書き過ぎであった、筆が滑ったにもホドがある、ということで目下少々反省しておりまして、といってオレは太宰にはこんなことする縁もゆかりもないですが、ここでちょっとだけフォローしておきたいと思います。
 
恥ずかしくって読めたもんじゃない、とまで書いておいてナンですが、太宰は面白いです。
 
伝記などをひもとくに太宰は非常に「座持ち」のする人だった由。
中学1年のとき、産休の代理で来た国語の先生が、おしゃべりな人の文章というのはとにかく1文が長い。漱石なんかは寡黙な人だったそうで、確かに一文がバシバシと切られて短い、野坂昭如はテレビであんな感じである通り作品も冗長でダラダラ長い、なんてな話をしてくれました。
今思えば12、3歳のガキによくそんな話をしたもんだと思うのですが、とにかく当時のオレはいたく納得したものです。
 
その伝でいうと、太宰の諸作品は、やたらめったら一文が長い。文庫本見開き2ページにおいて「。」がひとつだけ、なんてこともままあります。要するにやたらめったらよくしゃべるオッサンだったんだろうと思う次第です。
で、これは疑う余地もなく、太宰は猛烈な遊び人だった由。要するに「よくしゃべる座持ちの良い遊び人」だったというわけですが、そういう人の話や書いたものがつまらないわけが無いのでありますよ。
 
でもって、そこはやはり「走れメロス」を書いた人なわけで、ベラボーな物語創造能力のある人でもあった、という。
そういう能力を持つ人が、生涯ほぼ全身全霊を賭して、「座持ち」=見聞きするひとを飽きさせずに面白がらせる、ということに腐心しまくってたわけですから、そりゃ名作が産まれますわ。
 
「晩年(関係無いですが処女作品集にこんなタイトルを付けちゃうところがいかにも中二っぽくてイイ)」から「グッド・バイ」までを並べてみると、ある面においては、「座持ち」能力の変遷記録、という見方もできるんですね。当然ながらそれはさながらメロラップのごとくガンガン・ズンズン・グイグイ上昇しておりまして、「グッド・バイ」などは、未完ながらこれはもう大傑作ですよ。太宰の「座持ち」力の頂点ですね。未読の方は一度読んでみたらおわかりになると思います。
しかし残念ながら、恐らくはいつものように「カフェ」の「女給」を、オレはもうダメだ、一緒に死んでくれ、とか言って口説いたら、いつもなら「大人の対応」されるところ何故か本気にされてしまい、行きがかり上心中しなきゃなんなくなってしまって、結果未完となってしまったわけで、非常にもったいない話だなぁ、と思う次第です。
 
 
ということで、現在第11校目となる編集修正指示の待機中です。

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太宰。

高校時代あれほどハマり、そのあまり自分だけで収められず、当時隣の席だった舎人のガソリン屋のムスコ氏にまで波及させた我が太宰熱でしたが、あれからン十年、改めて諸作品を読むと・・・いや、読めないのですね。気恥ずかしくて読了できない。
奥野健男は、初老の域に達してなお、太宰は人間失格を書くために小説家になったと言っても過言じゃない、みたいなことを堂々と書いておられましたが、当時の氏よりはるか若年、未だ中年域の段階であるオレは最早そんな感想を抱くはるか以前のレベルで、独特の文体もハナについて仕方なくなってしまいました。
要するに「行き過ぎた露悪趣味」という感じでしか捉えられないでおります。読んでるこっちが恥ずかしくなる、という感じのが多いです。「晩年」なんかその最たるもので、これは要するに重症の中二病患者の手になるものですよ。そうじゃなかったらこれはなんだ、という。まだ「畜犬談」なんかはいい感じに枯れてて良いのですが、初期作品はムリ、無理ね。
良く言えばうまいこと中二病から脱却できたとも言えますが、悪くいやぁ感性が老化し鈍麻してしまった、ということかもしれません
でもって一番よくないのは、この件に関しては自分自身恐らく後者だと思うのですが、それでも別にヘイチャラでいられる、というところですね。実にタチの悪いオッサンです我ながら。当時こういうオッサンにだけはなるまいと思ってたはずなんですが、ものの見事に「太宰を鬱陶しがる忌まわしいオヤジ」になってしまいました。いやはや。
U田くん、申し訳ないね。当時さんざん勧めておいてこれだよ、という。
 
ただ、「津軽」だけは別ね。太宰の代表作品は?なんて問いに対して、(奥野氏も含め)たいていの人は「人間失格」を挙げ、ちょっとスノッブなヤローは「晩年」を推し、普遍的なその文学性云々ってことで「走れメロス」をピックアップする人も多くおられますが、いいオッサンになったオレとしては、「津軽」が最高傑作である、となんの疑問も猶予もなく思うのです。
 
ちなみに、当時愛読していて、今再読しても変わらず面白いものにはどんなのがあるか。
これがですね、自分でも少々意外なのですが、太宰以外は大抵変わらず堪能できるのですね。
とはいうものの堪能の仕方に多少のズレはあります。例えば丸谷才一の「男のポケット」なんかは往時も面白く読んだもののちょっとシブ過ぎ地味すぎかなとか思ってたのですが、今としてはシブ過ぎず地味すぎずイイ感じです。吉行淳之介の諸作品などはぶっちゃけ当時読み取れなかったところなんかもどうにかこうにか理解できるようになった、という明確な自覚があります。
ただ吉行作品に関しては、まだ読み切れてない感じがあります。してみると今のオレは、太宰を堪能するにはオッサン過ぎ、吉行作品を愉しむには青二才過ぎる、という、非常にダメなところにいるらしい。
 
で、繰り返しになりますが、なにしろ一番ダメダメなのは、別にそれでもヘイチャラである、というところですね。吉行作品の掘り出し物なんかが転がってたりしないか、とAmazon内をサーフィンしていながら、「応募即撮りH系さな写真集」なんてのがフト出てくるとほぼ無意識にとりあえずクリックし、なんだこのブ○○クな女は、クリックに所要した時間を返せ、などとブツブツ一人で毒づいているオレがいます。
  
そういうわけで、kindle生活もまぁ順調な今日この頃です。

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ポール・マッカートニー!

ここ数日遊んだり仕事したりその他いろいろしてる間に、世の中にもまたいろいろあったようで、なによりポール・マッカートニーがまたまたまた来日公演することになった由。こないだ来たばっかしじゃんか、と思うのですが、まぁ当方としては何度来てもらっても構いません。
 
昔はともかく、今は熱意も知識量としても、堂々と「ポールのファンです」と胸張って言えるような状況に無いオレなのでメッタなことは言うべきじゃないとは
思うのですが、それでも書いてしまうと、ここんとこポール及びその取り巻きは、ずいぶん変わったなぁ、と思う次第です。大げさに言うと「変質」した感じが
あります。
聞くところによると、なんか日本の週刊誌かなんかの取材で、あの、ポロシャツの胸ポケットだかに大麻を入れたまま成田の税関を抜けようとして捕まって拘置
所にブチ込まれた際の話なんかをペラペラ喋ったりしてる由。そんな質問をするやつ(湯川れい子だった気がする)もするやつですが、ペラペラ答えるポールも
ポールで、やれ看守にサイン求められただとか、同房のクリカラモンモンのヤクザと妙に気が合ったとか、そういうことを喋る人じゃなかったような気がするのです。ヘンクツなイメージがあったわけじゃ無いのですが、こういう質問に対してはなにより周囲がピリピリしてたんじゃなかったかな、というね。
人間、功成り名をあげ、且つトシをとると、昔の事柄なんぞどうでも良くなるんですねきっと。
 
ところで地球上の人類は、まぁ中には極めて例外的に「どっちも好き」とか「どちらも別に」なんていうよくわからない価値観の人がいたりもしますが、基本的にポール派とジョン派に大別出来ます。ホモ・サピエンスは必ずこのどちらかに属します。
で、ANNなんかを聴くに例えば坂崎@アルフィーや拓郎はジョン派だそうで、いわく「若い時は、なんとなくポールの商業主義的な感じがなじめなくてなァ」
とのこと。事程左様にどっちかっていうとジョンにシンパシーを感じる、という方がやや多数派な気がします。なんとなくですが。

しかし、オレは正にそのポールの商業主義的な部分、もっと言うと、その他に類を見ない「臆面の無さ」をこよなく愛します。
前回の来日時のライブ、オレの記憶に間違いが無ければ、セットリスト1曲目が「Eight Days A Week」だったはず。こういう曲を一発目に持ってきちゃうところがいかにもポールらしくてオレは大好きなのです。
 
20年くらい前に「ヤァ!ブロード・ストリート」なる映画がありましたが、これはもうスゴい映画でした。ポールの脚本・主演作なのですが、簡単に言うと、
竹馬の友(=リンゴ・スター)がなんか殺人だかの事件の犯人として捕まってしまい、世論もリンゴに否定的なところで、ポール扮する主人公が「世界の誰もが
疑ってもボクだけはリンゴを信じる!」とかいって苦心の末に真犯人を見つけ出し、最後はメデタシメデタシ、という、まぁはっきり言ってバカバカしさもここ
に極まるロクでも無い映画で、興行成績も惨憺たる有様だった由なのですが、オレはこういう脚本を臆面も無く書いて、しかも自身が主役で制作してしまうポー
ルの図々しさに惚れましたね。ポールはそうでなくっちゃいけない、と。
 
むしろビートルズ時代から、ポールのスゴさは、こういう臆面も無いド正面からの曲を数多作っていながら、それが全て陳腐に落ちないところだと思うのです。
音楽に限らず、普通はこういう図々しいスタンスでモノ作りすると陳腐でみちゃいらんない出来になっちゃうものだと思うのですが、ポールの場合少なくとも音
楽というジャンルにおいては決してそうならない。上記の「ブロード・ストリート」も、映画作品としてはロクなもんじゃないですが、サントラ盤は不思議なく
らい素晴らしいものでした。どっちも同じスタンスで作られてるはずなのですが。
 
その他にも、マイケル・ジャクソンが「スリラー」でブレイクしたと思ったらすぐ声を掛けて「セイ・セイ・セイ」etcを「共同制作」し”ぼくらの友情の証
しさ!”なんてな発言をしてみたり、若い頃からさんざんハッパやらLSDやらをやりまくっておきながら、いつのまにか「麻薬撲滅キャンペーン」などを主宰してみ
たり、どころかベジタリアンになっちゃったりするポールが大好きです。
今回の来日ライブも、もしかしたら1曲目が「イエスタディ」だったりするんじゃないかと期待している次第です。
 
なんでこういうことをこんな夜中に書いてるかというと、今回の来日に対して、さすが親日家のポール!なんてことを書いてる方を散見したからです。
なんにもわかってないなァ。ポールはヨーコが生まれた国であり、元ビートルズメンバーである自分をムショにブチこんだりしたこの日本国なんか大嫌いなはずですよ。
でもきっとライブでは、臆面も無く図々しく堂々と、ハロー!親愛なるニホンのミナサン!ボクは愛するニホンに来れてベリーハッピーだよ!などと叫ぶに違いなく、そんなポールを観てオレはきっとウレシ涙をこぼすのです。

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遠い遠い昔。

先崎学のエッセイに、なんか重いものを持ち上げた時に思わず「よっこいしょーいち!」と言ってしまって、周囲の若者にポカンとされた、という話がありました。
呆れられたりムッとされたりではなく、なぜ「ポカンとされた」かについて、著者は、彼らが若者であるが故に「横井庄一」を知らないのだ、というところに思い至るのですが、そういや先日小野田寛郎さんの逝去の報も、オレとしては思いのほか扱いが小さいなぁ、と思ったものです。

昭和も遠くなりにけり、時は常に流れ時代は変わるのだ、と改めて思うわけですが、同時に、その時代におけるメインストリームとされる世代が若年化している感じもあります。その時代の中心中核を為す世代というものが、だんだん若くなってる、そんな気がします。
例えば、我が国のありとあらゆるメディアは、20年ほど前と比べてそのターゲットが10歳は若くなってる感じがあります。確かに小野田さんに関する諸々は「昔のこと」ではありますが、それにしてもちょっと扱いが小さすぎやしませんか、と思う。

江戸時代、オトコはみんな前頭部を剃ってチョンマゲ結ってたわけですが、オレが思うにあれはハゲに合わせてるんだよな、と思う次第です。ハゲてない成人男子はみんなハゲてるオッサンに合わせろ、と。

同様に女性も・・・和服着るときって、正式名称は知らないですがなんかタオルとかをお腹部分にグルグル巻きますよね。そうしないと和服ってのはカッコよ
く着こなせないようになってるんですね。これも言ってしまえば中年太りの状態を人工的に作ってるわけで、要するに成人女性はオバさん体型に合わせろ、と
いうことに他ならないんじゃないか、と。

事程左様に、江戸時代までさかのぼるまでもなく、昔は主体がオッサン・オバチャンだったんですよね。
でも、今は間違いなく「若者」です。
FBや、各ポータルサイトの広告などを見ても、オッサンオバチャンに対する、いかに若さを保つか、といった主題のものがやたら目につきます。
まるでオッサンオバチャンであることが恥で悪ででもあるかのように。

私的には、若者であるということには、80%くらい「無知なバカ」であるという意味が含まれてると思うので、こういう様相はオッチャンオバチャン、引いては当の若者のみなさんにとってもあんましトクなことでは無いと思う次第です。

まぁなんのかんの言っても小野田さんに関する諸々が「遠い遠い昔」のことであるのはその通りなんですけどね。小野田さんも、津田信も、関係者のほとんどがもう彼岸の人です。

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五輪について。

特にフィギュアみたいな採点競技においては・・・いや他全ての競技においても、とにかくメダルを期待したり、それに重圧を感じたりっていうのは、五輪にお
いては全く持ってバカバカしい、ほぼ無意味な所業です。五輪の審判なんかしたり顔してるだけのワケワカランやつがやってんだから、
そんなやつの採点なんかなんの意味も無いのです。過度な期待がダメだってんじゃないです。「期待」そのものが有る意味罪なんじゃないかと思うのです。

昔ボクシング競技で韓国の辺丁一選手がオレでもわかるバカ丸出しの判定でもってメダルを逸し、その結果を不服としてジャッジをブン殴って乱闘に
なったことがありました。、クドいようですがこういう事案というのはボクシング競技に限ったことでは無く、要するに夏だろうが冬だろうが、ロス大会以降の五
輪というのはもはや単なるイベントであって、純粋なスポーツ競技会では無いのです。盛り上がればなんでもアリなんです=より盛り上がるヤツがそれとなく勝
つんです往々にして。
「純粋なスポーツ競技会」だったらあんな判定やらかしたジャッジは永久追放モンです。ただそもそもこの時のジャッジはボクシング畑の人じゃ無かった(!)わけなので、永久追放されても痛くもカユくも無いんですよね。これがオカシな話じゃなくてなんなんだ、というね。
(なお、これまたクドいようですが、だからって審判をブン殴って良いってことじゃないです念の為。)

逆に言うと事程左様な国際的な一大イベントであるのは事実なので、それが純粋なスポーツ競技会で無い以上、やれ国策であるとか、実力者のフトコロであると
か、「純粋なスポーツ競技会」だった場合には余分なものである事柄がより重視されるのもこれまた必然で、そういう意味で浅田さんとか高梨さんなんかは、こ
れはもう被害者、当人及び周辺の方々にしてみりゃいいメイワクだろうと思う次第です。意識してるかどうかはともかく。

またまた逆に言うと、「純粋なスポーツ競技会」であった場合には余分である事柄、上記で言うとフトコロ云々はともかく、一例として、まず国策としての有用
性ってのは厳然とあるわけです。いろんな事情でもって、デカいイベントを一発ブチ上げたい国ってのはあるわけですね。近しい国でいうと、80年代のソウ
ル、ミレニアム以降の北京にはそういう「需要」があったってわけですね。

じゃあ、2020年に、東京でその大イベントをやる必然性ってのはどうなのか、ね。
少なくとも具体的な根拠は見当たらないですね。どっちかっていうとやったほうがマシになる気がする、みたいな、極めて抽象的な根拠しかオレには見えない。
要するに2020年東京五輪ってのは、これはある意味バクチなんですね。やったほうがマシになる気がするけど、やんなきゃよかった、ってな結果になるかもしれない。ツボを開けてみないと丁半はわからんのです。
1964年の東京五輪にはかなり具体的なメリットやメソッドが想定されてたはずですが、今度のはよりギャンブル性が高いように思うんですね。

今さらなようですが、イベントだからダメだって言ってんじゃないですよ。デカいイベントってのは心躍るものです。心躍って悪いことはあんまり無いですよ。
だから、2020年は盛大にブチ上げて欲しいと思う次第です。やることになった以上オレとしては「成功」に張りたいと思う。
でも、だからって、たかがイベントごとで、選手やチームをゲヒンな持ち上げ方したりそうかと思えば落としたりなどして弄んじゃいけません。

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またまた「インターネット」について。

「ネット人格」「メール人格」なる言葉がありますが、確かにインターぶネット上で伺える人となりとリアルでのそれが異なる、というのはよくあることです。
その傾向は、当然ながらことSNSにおいてより強くみられるかと思うのですが、もっというと、「まるっきり逆な人」と「完全に同じな人」とに分かれる気がします。いわゆる二極化ですね。こんなところまでデジタルなわけですね。
世界は一家、人類はみな兄弟、SAVE THE EARTH!などと笹川某みたいなことを頻繁に書いてる人が、近しい人に聞いてみるとカネ払いは悪いは時間にルーズだわ、実は存外ロクデナシだった、なんてことも良くあるようです。誰ってわけじゃないですけども。
同様に、上記のような笹川的な事を頻繁に書いてて、実際その通りな人もおられます。
逆もまたしかりで、ロクデナシ丸出しなことばかり書かれてながら、その実像は高潔だったり。なにしろネット上での印象はアテになりません。

考えてみると、このことは対人に限ったことではなくて、ネットでの事柄は全てそうなんですよね。決してネットで盛んに言われてることが必ずしもそのまま「世論」では無い。まるっきり逆か、完全に同じか、どっちかです。

対応策としては、あったりまえですがネット上での事柄を盲信しない事ですね。妙な固定観念を持つべからず、です。実際のところはこの目で見なきゃわからんのだよ、と、取り急ぎ心しておくことが大事ですね。

ただ、これは存外難しいのですね。いい大人でもこのあたりが上手いことさばけなくてエラい目に遭ってる方が多い由。
いわんや子どもをや、です。ずいぶん昔ですが佐世保の方で女子小学生が同級生のクビをナイフだかでかっ切って殺しちゃった事件がありましたが、あれもそう
いやネット上でのトラブルが元だったはず。リアルでの人間関係構築能力も拙いようなレベルの子どもが、ネットでの取捨選択など出来ようはずもないのであり
ますよ。そういう意味で被害者も加害者も非常に不幸だな、と。
(関係無いですがこの件の舞台になったサイトは、この後程なく閉鎖されました。いつのまにか無くなった、という感じでした。逃げやがった、と言っても良いですね。)

佐世保の事件は、もう10年以上前のことだと思いますが、昨今コンビニの冷蔵庫に入ったりしてヒドい目にあってる面々は、もしかしたらこの被害者・加害者と同世代かもしれないなぁそういや。
なにしろ「インターネット」というのは言っちゃえば単なるツール=道具でしかないはずなのですが、単なる道具ごときで一喜一憂し、ましてや人生棒に振ったりするのはバカらしいです。
バカらしいことはしないが吉です。気を付けたいと思う次第です

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モチについて。

モチ食いながらつらつら考えるに、どうやらスケジュールがエラいことになっているようです。こんなに有り難いことは無いので、ひとつひとつ誠実に、しっかりこなしていきたいと思います。

全く関係ありませんが、今年のモチは非常に美味い。って今年に限ったことじゃなかろうと思うのですが、いややっぱし今年のは美味い。そう思えます。思えちゃうんだから仕方が有りません。ああ、我が国日本は、米の国なんだなぁ!と改めて想いをかみしめつつ、醤油つけたりノリ巻いてる次第です。

これほどまでにモチを美味く食えるのには、その大きな要素に、昨年Amazonにて9800円で購入した石油スト―ブの存在があります。思うにモチというものは、オーブンレンジでチンしたり、ガスコンロで焼いたりするのは邪道です。本来は囲炉裏的なもので焼くのが本道なのかもしれませんが、囲炉裏のない我が家に置いては石油ストーブにくべるのが次善策かと思う次第です。

モチひとつで、ごはん茶碗一杯分のカロリーだかがある由。今日は打ち合わせより戻ったのがAM1時頃でしたが、ってことは帰宅以来オレは既に茶碗で5回「おかわり」をした勘定になります。深夜にこれだけイッキに食うとどうなるかというと、言うまでも無く満腹になります。ましてや今日は食事しつつの打ち合わせだったので、スタート時点で既におなかはイイ感じでした。

でも、とにかくモチは美味い。くどいようですが、ああ、我が国日本は、米の国なんだなぁ!と思う。

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全くもって他人事ではないのです。

正社員を雇うと、その社員に払う給料以外にン十万ほど余計にかかるんですよね。物理的に出ていく保険やなんか以外に、教育費だとか、まぁいろいろ。

終身雇用制が生きてる頃は、一人前になったらその分も会社を背負って頑張っておくれ、ってことで、それらはいわば教育投資としてアリの出費だったわけですが、瓦解しちゃったあとはそういう発想も出来にくくなってしまった。

で、企業としては自衛として、より薄給でコキ使え、余分な「ン十万円」も必要ない臨時雇いとしてのバイトにその分の人材補填する流れが出来たわけですが、それをさらに進めた形として、もしかしてそういうバイトメインでルーチン廻すシステム構築したらいちばんおトクなんじゃね?ってことで、コンビニだとか宅配ピザだとかっていう業種は成長してきたわけですね。

スタッフ・社員の成長とかどうでもよくて、とにかくその時々に安くコキ使えるやつを縷々採用して会社を廻そう、ってわけですね。行きつけの喫茶店チェーンなんか、スタッフの9割方がバイトで、あろうことかそんなバイトに「バイトリーダー」とか言って管理職的役割も強いたりさえしてますからね。

その目論みは、企業単位で見るとまぁ大体にして成功し、かくして我々は12個98円の餃子だとか、200g88円のミートソースなんてものに有りつけたりすることが可能になったわけです。上述の喫茶店も、本来管理職社員がするべきことまでバイトに強いたりしてるからこそ、あの値段であのレベルのコーヒーが出せるわけですね。

ただ社会的に見ると、人件費の削減で安価な製品の供給が可能になった反動で、なんだか想像を超えたデフレなども生み出しちゃったりして、こりゃ少々マズいんじゃないか、みたいなレベルにまで来てしまったわけですが、臨時雇いを廻すこと前提でここまで成長してきた各企業は、だからといって今さら引き返すわけにもいかず、さてどうしたもんか、と。

そしたら、その「薄給で便利にコキ使える」だけの存在だったはずの面々が、あろうことか反逆的行為に出たわけですね。

ちゃんとした正社員として、ン十万円の投資も厭わず教育etcを施すことを避けた結果、手痛いシッペ返しを受けてしまった、みたいな形ですね。

考えてみりゃ、無責任な立場の臨時雇いでもって社業そのものを廻し続けよう、なんてムシのいい話がいつまでも通用するわけ無いんですよね。今まで廻せてたってだけでスゴいことですよ。バイトはどこまで行ってもバイトです。冷蔵庫に入ったり食材をオモチャにされたくなかったら、ちゃんとした投資を元にした正社員にやらせなさいよ、その代りそういう人は時給1000円とかじゃ動きませんよ、という。

「シッペ返し」というものは常に予想もしないところから来るものです。ピザ屋もコンビニもステーキ屋も、「薄給で便利にコキ使える臨時雇い」の面々の、安かろう悪かろうっぷりを思い知ったことでしょう。これを機に、安易にバイトに頼らず、ン十万円の出費を厭わず、正社員としての雇用促進に尽力して頂きたいものです。

とか言いつつ、実はオレ及び弊社自身が、こういった安直さの極北だったりするわけです。雇う側としても、雇われる側としても、身に覚えが有ります。有り過ぎる。

かくして、この手の「話題」が出るたび、オレとしてはまるっきり他人事じゃないので、なんとも言えない気分になるのです。

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