昨日に続いて。今度はAKBのこと。

以下は2013年1月12日の日刊スポーツ記事です。

講談社は11日、12日に予定していた週刊の漫画雑誌「ヤングマガジン」の発売を延期すると発表した。AKB48河西智美(21)の胸を少年が手で隠す写
真の掲載を予定していたが、同社はこれを「社会通念上、読者に不愉快な感情を抱かせる」と判断した。出版取次会社への搬入も済んでいたが、回収した上、内
容を差し替えて今月21日に発売する予定。写真は、2月4日に発売する河西の写真集の表紙に使われる予定だったが、発売自体も白紙に戻して検討中としてい
る。

・・・いくつか想うところがあるのですが、ひとつめ。

例えばキャバクラが密集してる地域があるとして、どの店も「おさわりNG」としてる中、ある1店舗だけが「ウチはまぁちょっとくらいならOKです
よ」とやったら、ある程度嬢のレベルに難があってもやっぱし客はそちらに流れると思うのですが、要するにそういうことなんですよね。AKB商法の主要要素
のひとつはこの手の「反則技」によると思えるのです。もちろんそれが全てでは無く、彼女らの様々な努力に依る部分が主なのはわかるのですが、それ以外の部分での反則技が目立つのも事実でしょう。

こういう「商法」は結局のところ所詮反則技でしかないので、往々にしてロクな結果は生まないものです。大抵の場合は反則を犯した店がペナルティを
食ってオシマイになるのですが、この「反則店」が資本的にもそれなりのポジションを確立したりした場合、その業界そのものが死んじゃうんですよね。上記の
キャバ店の例で言うと、その地域が最終的に過疎って終了、となるのが常です。たちかえって我が国の音楽シーンがどういう状況か、何をかいわんや、です。

あとAKBの場合、この反則の種類として「エロ」への訴求が目立つのですが、この訴求方法には「安定供給」は有りえないんですよね。刺激というも
のは不安定要素で、常にエスカレートし続けなければならない宿命があるわけです。だからこその「刺激」ですからね。前と同じことやったらそれはもう「刺激」ではない、そういう訴求はもう出来ない、という。

いつだったかTSUTAYAだか行きまして、なんかショートパンツ穿いた若い娘が足広げて座ってるポスターがデカデカとレジ横に貼ってあるのを見
まして、ああ、最近じゃ軽い着エロ系のコンテンツも堂々と宣伝したりしちゃってるんだな、と思ったら、それがAKBのセンターの娘の写真集だかなんだかのだっ
た、ってなことがありました。

今思えばこんなのはまだまだ軽い「刺激」だったんだな、と今回の写真を見て思いました。今回のこれなんか、もはや「軽くない着エロ」じゃねぇかよ、と。

この娘らは、もはやここまでやらなきゃAKBでいられないのかなぁ、かわいそうに・・・というのが第一印象でした。

この手に関してはオレはあまり通じてないですが、彼女らはきっと過酷なレッスンや、常人には想像もできないハードスケジュールなどを歯を食いし
ばってこなし、その上でわけわからんアンチなどによるいわれなき誹謗中傷にも耐え、してるはず。またこれだけの規模のムーブメントになると、彼女らが背負
う責任、重圧もハンパなものではないはずです。なんだかんだ言ってもみんなまだうら若き娘さんですからね。そんな娘がどれだけのストレスと戦ってるの
か、と。

その上で、若しくはそのために、彼女らは請われるままに半裸にまでならなければならないのか、と思うと、なんだかホントに悲しい話です。角兵衛獅子じゃないんだからね。

同時に、ここまでやらないと、いわゆるアイドルとして存在出来ないのだとすると、もういろんなことが業界としてオシマイなんだな、とも思いました。

ふたつめ。

仮にも大日本雄弁会講談社ともあろう存在が、なんでこの写真をそのまま通したんだろうか??というところです。

児童ポルノの規制についてこんなにヤカマしく喧々諤々されてる・・・しかも出版社というのは有る面においてその当事者なはずです。それが何で?と思わずにいられません。

誰がどう考えたって、今の日本国において、少年が成人女性のオッパイ触ってる写真がOKなわけねーだろ、と。これがOKなら、少女が成年のチ○ポ触っててもOKなのかよ、というね。全国のロリ属性の面々は大喜びでしょうが、そんなのOKなわけないよね。

エロの刺激供給にマヒしちゃってるのは、どうやら消費者だけじゃ無いようで。

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体罰とかそういうことではない。

「大阪市立桜宮(さくらのみや)高校(大阪市都島区)の2年男子生徒(17)が昨年12月、所属するバスケットボール部の顧問の男性教諭(47)から体罰を受けた翌日に自殺した問題」に関する話題が喧しい昨今です。

・・・オレは必ずしも体罰を全否定するものではありません。体罰によってナニゴトかが生まれることも決して無くは無いです。例えば自我の確立が未だな子供などに
は、善悪を「体で覚えさせる」ということも時には必要だと思っています。・・・と書くと、「その善悪の判断=体罰の可不可の基準はどーなるんだ!」という
反論というか質問が来たりするのが常なのですが、その判断基準こそがその家庭、引いてはその地域、さらには国・民族の「文化」だったりするわけですよ。
とにかく、時には体罰も必要です。誤解を恐れず書いちゃいますが、オレはそう思う。

・・・ただですね、今回のこの件、これは体罰云々じゃ無いんですよね。

「体罰によってナニゴトかが生まれることも決して無くは無い」と書きましたが、当然ながらこの文意は「必ずナニゴトかが生まれる」ということでは
ありませんでもって、今回の件は「なにも生まれない」究極的なサンプルでしょう。で、なにも生まない暴力は断固否定されねばなりません。当たり前ですが。

この教師は要するに年端もいかない少年を、恒常的にボコボコにブン殴ったりしてたってことらしいですが、そんなことでナニゴトかボジティブな事柄が生まれるわけねーだろ!と。

反撃される可能性が限りなくゼロに近い相手への暴力っていうのは非常に卑怯だ、とオレは思うわけです。

で、この教師は、それを「教育」だか「指導」だかという美名のもとで行ったわけで、二重の卑怯さを感じます。きたねぇヤローだなぁ!と思う。

この場合の「反撃」っていうのは必ずしも暴力的な事柄だけでなく、例えば、ブン殴ったりして指導したにも関わらずその選手が伸びなかったとしたら、本来はその時点で指導者としての格を喪失してしまうわけで、これもある種の「反撃」でしょう。報い、というかね。
事程左様に、それによって起こる全ての事柄について責任を負える覚悟と自負が無い人には、「体罰」の資格は無いんですよ。当たり前過ぎて書くのがバカらしいですが。

でも、今回のコノヤローは、そういった責務をロクスッポ果たしてないんですよね。「教育」だか「指導」だかといったことで昇華されてしまってますが、コノヤローはそれに伴う責務も、責任も、なにも果たしておらず、要はただブン殴りまくっただけで、結果なにも生まなかったばかりか、あろうことか一人の少年に自死を選択せさしめてる、という。こうなるとこれは単なるマスターベーションとしての支配欲を動機とした「殺人」でしかないです。教育も指導も、それに伴う覚悟も自負もハチのアタマも無く、単なる歪んだ自己満足の帰結としての、ひとつの悲しいサンプルです。

ただ・・・それでもなお、「体罰イコール悪」としてしまえるほど、人間関係ってのは単純なものでは無い、というところに変わりはありませんし、それを撤回するつもりも今のところありません。一律の方程式はそのまま成り立っちゃうほど人間関係は単純じゃない、と。

なにが言いたいかというと、今回のこの事件は、体罰、教育論に値するようなことではない、と。そんな高尚な「事件」では無い、単なるオナニージジイのバカな暴走と、それを黙って見てたマヌケなバカ大人による「犯罪」でしかないので、ね。

これで体罰「イコール」悪なんていう図式が固定化・絶対化してしまうことを、オレは憂います。今舞の件は別問題だよ、と。今回の件で「体罰」を論じるのは、ちょっと無理があるな、と思う次第です。

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ドウランの 下に涙の・・・

モー娘。石田亜佑美と工藤遥、けがで「24時間テレビ」欠席

だそうです。

このモー娘。とか、AKBとか最近じゃももクロだとかはたまたジャニーズ事務所所属の皆さんを見るにつけ、オレはどうしても角兵衛獅子を想ってしまいます。角兵衛獅子については http://www.tisen.jp/tisenwiki/?%B3%D1%CA%BC%B1%D2%BB%E2%BB%D2 
こちらを参照のこと。とにかく・・・「ドウランの 下に涙の 喜劇人」などと言いますが、こと喜劇人のみならず、彼ら・彼女らのステージ上etcでの笑顔
の裏にはどれだけの「涙」が有ることか。想像するに余りあります。普通に生活してたら、全治一か月の足首捻挫だとか、半月板損傷だなんてハメにはそうそう
遭うもんじゃありませんよ。オレは四十路も半ばにして、未だ半月板損傷なんて目にあったことは無いです。
・・・って、ああ、2008年にアキレス腱切ったりしましたが、あれは要するに寝ぼけてコケて切った=件の彼女らのようにある意味において肉体的キャパシティを超える労働を強いられて切っちゃったってわけじゃないので、これはまったく別のお話です。

まぁ前記したような角兵衛獅子と違って、これはあくまで真っ当な「仕事」であり、基本的に本人が望んでこの苦界に飛び込んで行ってるわけなので安直な同情など無用であるのは承知ですが、年端もいかない子らがテレビやライブステージで歌ったり踊ったり時には道化を演じたりしているさま、
なんか、どうも素直に楽しめなかったりします。パフォーマンスを堪能するより先に、なんだか痛々しくってねぇ。ダメだねオレは、こういうのは、ね。

あと、こういう子らをさんざん踊らせて、その裏でもってギャラを抜いてるオトナの存在が見えちゃうんですね。

いったんこういうのが見えちゃうと、クドいようですがもうダメね。オレは。

昔は、こういう存在の「オトナ」は奥に引っ込んでるのが普通だったですよ。当たり前の話で、ピンハネでもってメシ食ってるようなのは表に出たりしちゃいけない、という一種のモラルが我が国に厳然と存在してたですからね。

で、当の抜いてる本人らにも、嘗てはいわば日陰者としての自覚があったように思えます。
若い子らを表に立てて踊らせて大儲けして、そのピンハネした金でもって当たり前にベンツだクライスラーだ乗ったり、いかにもなマンションをホイホイ買っちゃったりなど、我が
世の春をいかに謳歌してようとも、決して表にでるもんじゃない、という、これまた一種の、自負、というかね、そういうものが抜いてる側にもあったはずで
す。任侠としてのマインドというかモラルというか。

それがまぁ、最近じゃフツーに表に出てきてるようですね。なんなんだオマエらは、恥を知れ、と、オレは思いますよ。「プロデューサー」とかカタカ
ナで自称してるけども、やってることは要するに角兵衛獅子の親方じゃねぇか、というね。なんでそんなヤツがエラソーにメディアでもってしたり顔でペラペ
ラ喋ったりしてるんだろう、と。

とにかく、件の彼女らの快癒をお祈り致します。

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アニマル浜口について。

昔々の昭和の御世、我が国には全日本プロレス、新日本プロレス、そして国際プロレスという3つのプロレス団体がございまして、この3団体が文字通り三つ巴でもって国内プロレス市場を独占しておりました。
昨今はいわゆる「インディーズ」団体が雨後のタケノコのように生まれては消えしておりますが、当時はこの3団体が日本のプロレス団体の全てと言って良い状況でありました。・・・あ、男子の、ね。

ただ・・・「三つ巴」と書きましたが、いずれも「国民的英雄」力道山の愛弟子であったジャイアント馬場、アントニオ猪木の率いる全日本、新日本と比して、そういった系譜からすると直系筋ではなかった国際プロレスは、まぁなんというか、いかんせん地味というか、とにかく前記2団体の後塵を拝する立ち位置を余儀なくされておりました。

国際プロレスのエースは「金網の鬼」ことラッシャー木村。
そしてマイティ井上、アニマル浜口がいわば中堅として脇を固め、ルチャ的空中殺法の使い手であるマッハ隼人に、テクニシャン寺西勇と、コマはそれなりに揃ってたんですけどね。
でもって外人選手もなにげにイイ感じのが挙って来てたんですが、いかんせん力道山直系の2団体との人気差はいかんともしがたいものがありました。

でまぁ経緯・詳細は割愛しますが、あれはオレが中学二年生の頃、この国際プロレスがつぶれちゃうわけです。

団体の倒産によって宙ぶらりんになっちゃった旧国際プロの選手ら。
・・・これまた詳しくは省きますが、この選手らに目を付けたのが、辣腕で知られた新日本のプロモーター(でいいのかな)・新間某氏です。
またまた経緯は省略しちゃいますが、氏はいわば会社都合でもって無職化の危機にあった旧国際プロのラッシャー木村・アニマル浜口・寺西勇を、団体のスターでありいわば「正義のヒーロー」的役回りであったアントニオ猪木に対する「悪玉」として起用し、新日本のリングに上げたわけです。

このあたりの事情は当時からのプオタであれば誰もが熟知しているのですが、だからといってあんまし割愛してばかりなのもアレなので、、ここはwikipediaから引用しておきます。

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1981年10月8日、蔵前国技館にて、「新日本プロレス対国際プロレス」の”全面対抗戦”が行われた。その直前に国際は倒産して興行機能を失っており、そこで新日本との対抗戦を模索したものだが、この大会のポスターにも名を連ねていたマイティ井上・鶴見五郎など多くの選手が反発し、全日本プロレスへ移籍するなどしたため、残党としてラッシャー木村・アニマル浜口・寺西勇の3人が新日本へ乗り込んだ。

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・・・ここに至って、ラッシャー木村・アニマル浜口・寺西勇の3選手は、「はぐれ国際軍団」として、猪木の敵役というアイデンティティを得たわけです。

で、この役回りを「より良く」遂行するために、上記引用しました1981年10月8日・蔵前国技館興業に先駆けて、その前フリ・事前煽りの機会が彼らに与えられました。
これについても、またまた引用。

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これ(=1981年10月8日・蔵前国技館興業)に先駆けた1981年9月23日、木村と浜口は新日本の田園コロシアムでの興行に姿を現し、決意表明。この際に、マイクを向けられた木村は「こんばんは…」と第一声を発してファンからの苦笑を誘った一方、浜口は「俺たちが勝つんだ! 10月8日を見てろ!」とアジテートし、うって変わってファンからのヒートを買った。

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そうです。これがかの有名な「ラッシャー木村マイク事件」。

・・・ただね、オレは、この木村マイクよりも、、

> 浜口は「俺たちが勝つんだ! 10月8日を見てろ!」とアジテートし、うって変わってファンからのヒートを買った。

ここね。ここが非常に印象的でした。

この場面は、恐らくyoutubeなどにもUPされてると思うので、未見の方は是非みて頂きたい。
木村の誠実・実直な人柄とともに、アニマル浜口というレスラーの、卓越した空気読み能力、誤解を恐れず言うならば「プロレス芸」。
あの時、アニマルが木村からマイクを受け取って「アジテート」してなかったら、その後の彼らは間違いなく存在していなかったはずです。
愚かなるガキであったオレは当時全く気付きませんでしたが、オトナになってようやく、この浜口の至芸に感嘆するに至った次第であります。

この後、猪木vs.「はぐれ国際軍団」3名の1対3ハンディキャップマッチなどという、今考えたらかつてメジャー団体のエースだった面々としては屈辱以外の何物でもなかったであろうマッチメイクが組まれたりしたのですが、ラッシャーも新間氏も既に彼岸にある今となってはどうでもよいことです。
(ちなみに木村はその後全日本プロレス~プロレスリング・ノアで、前座に無くてはならない存在として永く愛されるに至りました。)
 
 
 
さてさて、この度の五輪です。

アニマルの愛嬢である京子ちゃん、残念ながら一回戦負けと相成ってしまいましたが、やはりその傍には、あのアニマルが、寄り添っております。

思えば、常にアニマルが前面に出、時に道化を演じたりすることで、どれだけ無粋なマスコミ取材から京子ちゃんが守られたことか。

ワケのわからんバラエティ番組に引っ張り出された際も、アニマルの「卓越した空気読み能力」によるパフォーマンスで、どれだけ京子ちゃんの負担が減ったことか。

アニマルの例の「気合いだ!」etcが注目されることで、結果としてどれだけ京子ちゃんの練習時間が守られ、精神面での負荷が軽減されたか。

考えたら、賛否両論あれど、国際プロレス残党をすんでのところで救ったのも、アニマルの「卓越した空気読み能力」でした。

アニマル浜口、アンタはすごい人だよ・・・と、オレは思っています。

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大津の「いじめ」事件から。

こと中学生というものは要するに「気力体力の有り余ったバカタレ」なのであって、だからこそ彼らは「未」成年なわけです。放っておいたらイジメもするだろうし、夜の校舎の窓ガラス壊して廻ったりするに決まってます。そういうヤツが現れたってなんの不思議もありません。だって彼らは「未だ青年にあらず」なんですから、それは仕方の無いことです。

で、そういう「気力体力の有り余ったバカタレ」の、「気力」や「体力」も含めたいろんなことを横道にそらさぬ様に、進むべき道を指し示すのが「成年」、すなわちオトナの仕事です。
仕事っていうか「義務」ですね、オトナとしての義務。

そういう意味で・・・オレはきっと少数派なんだと思うのですが、このイジメ「加害者」のガキどもも被害者ですね。進むべき道を指し示してくれる「マトモなオトナの存在」というものが、報道をみる限り、彼らの周囲にはちょっと異様なほど欠落しています。
親も、教師も、近所のオッサンオバチャンも、誰も彼らをマトモに扱わなかった。中学生として、なにが悪くて何が良いのか、こんなことも彼らはこのトシになるまで本質的に教わることがなかった。
ここに最大の不幸があります。

いにしえの子供らは、「ドラえもん」なんかのマンガでも描かれてたりするように、都市部でもそこかしこに存在した空地etcで、内包する「気力」や「体力」を昇華し、またする術を学んでいました。

やがて都市化etcによって、まずそういう場が失われた結果、彼らはそのエネルギーを鬱屈させ夜の校舎の窓ガラス壊して廻ったりなどの「校内暴力」、「家庭内暴力」にその代替を求めました。

そして、それらが組織的に抑えられた結果、彼らはさらにエネルギーを鬱屈させると同時に、「組織的に抑えられにくい方法論」でもってそれを昇華するよりほか無くなってしまった、というわけですね。

・・・要するに彼らにとって「いじめ」は必然なのですねきっと。他に選択できる方法ってあるかな。ないよな思うに。

繰り返しますがこと中学生というものは要するに「気力体力の有り余ったバカタレ」でしかないわけですが、それへの対応策として「組織的に抑える」しか手段を見いだせなかった「オトナ」の罪、これは重いですよ。

そういう意味でですね、オレは正直言っちゃうと「ゆとり教育」っていう指針に、ちょっと期待してたとこがありましたよ。
ああ、ようやく、ただ抑えつけるだけが能じゃ無いんだってことに気付いたですか、それはなにより、と、ね。

でも、ダメでしたね。単に授業時間減らしたりっていう、表層的なところで終わっちゃいました。どうして「ゆとり教育」が必要なのか、ってところが、どうやら現場に全く浸透してなかったみたいでね。
もっというと、教える側が、「ゆとり教育履行マニュアル」に従ってしか動いてなかったですからね。
ああ要するに授業時間減らして、円周率も「だいたい3くらい」とかいう感じでテキトーにしちゃえばいわけですね、了解です、みたいな。
教える側が「マニュアル馬鹿」なんだから、そりゃダメになるに決まってるわなぁ。

じゃあ今後どうなるのかというと・・・なんかこないだ、警察庁長官がこの件について会見したりしてましたね。でもって、教育委員会だとか学校そのものに「家宅捜査」が入ったとか。

ここまで来たら、警察でも自衛隊でもなんでも入らなきゃどうにもなりませんよね。そういうレベルの事件ですよ今回のは。

で、警察にとって「教育現場」への介入はある意味悲願だったはずですから、今回前例ができた以上、今後もガンガン介入してくることになると思います。

それがまた新たな「抑えつけ」に繋がっちゃわないことを祈ります。

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見失った人たち。

「永田町の首相官邸前で22日、関西電力大飯原発の再稼働撤回を政府に求める抗議行動」だそうです。要するに「デモ」です。
毎日新聞によると、
「主催者によると約4万5000人、警視庁によると約1万1000人が参加。周辺の歩道を埋め尽くした人が「再稼働反対」と、約2時間にわたって声を上げた。」
とのことです。

これに対し(ってこれに限らないけど)、「本気で原発が止められると思ってデモしてるヤツがどれだけいるんだろう」というような主旨の発言をいくつか目にしましたが、それを言っちゃぁおしまいよ、であります。

振返ってみると、’60年代の全学連、’70年代の全共闘、そして’90年代の「オウム」の人らも、本気で革命なりを起こせると思ってた人は実はさほど多くないんですよね。

学生運動においては一種の「祭り」、オウムにおいては同じく「行きがかり上」でコトが行われてたりしたようです。

必ずしも全員が「革命」なりを純粋に信じきってた、ってわけでもないらしいです。

ただそんな中において、ごく一部のアタマのオカしい一群が本気で信じてしまい、現実とのギャップの反動でもって暴走する、というのが、これらのひとつのパターンだったりするようです。

共産主義革命を本気で目指しちゃった若者の一部は、最終的に「あさま山荘」において単なる凶悪犯に成り下がり&残党は未だにパレスチナ(の支援は
実は既に失ってるという報道もありましたが)あたりでもって何やかやしてる状況がありますし、「オウム」はそのギャップを受け止められず、「ヴァジラヤー
ナ」という名のもとにサリン撒いたりなどし、さらに驚いたことに「残党」が未だに麻原の誕生日に「教祖聖誕祭」なんてなことで集ったりしてる由です。

「祭り」の締め方を見失った、若しくは「行きがかり上」という行動様式から脱却する術を見失った一群です。

いうまでもなく、福島第一原発の事故のかなり以前から、「反原発」というのは上記と同種、一種のイデオロギーであり、同時に非常に「宗教」的だったりする(でしかない)わけですが、この事故を契機にそれが先鋭化してきている感じがあります。

ってことはですね、歴史上の先例に倣うと、もしかしたら今最も恐れるべきは「反原発」な人たちの暴走、なのかもしれませんよ。

そういや先月だったか、瓦礫輸送トラックの下に妊婦が潜り込んで進行を妨げた、なんていう「妨害工作」が報じられてましたね。

こういうのは、もう立派な「暴走」ですよね。どう考えてもコンセンサスが得られない方法論なわけですが、客観的な視点を欠いてしまってるという意味でも、もはや先鋭化した一部は単なる暴徒でしかなくなってるように思えます。

ああ、デモはいいですよ。OKです。意思表示の為の方法論として決して侮れないものだとオレも思います。ガンガンやっていいんじゃないか、とかオレは思ってたりしますよ。

でも、とにかく「暴走」しないで頂きたい。本来の主旨を見失わないで頂きたいものです。

‘70年代の学生運動においても、学生側の主張はある時期まではかなり正当なもので、故にその運動は一般市民レベルにも結構評価されてたりしたそうです。

ただ、日大芸術学部(オレの母校ですが)での「闘争」の際、デモetcの鎮圧に当たった体育会学生に対し、ハダカにしたうえ針金で後ろ手に縛り、
その上で指の骨を折り、「市中引き回し」にした、なんてことがあったそうで、そんな辺りからコンセンサスを失い始め・・・という次第だったそうです。これ
などがまさに以降に連なる「暴走」の始まり、だとか言われてます。

「オウム」も、1990年年の衆議院選挙での大惨敗以前までは、メディアの扱いも「ちょっとユニークな新興宗教」ってだけのモノで、実際教団内もそれ以降に比べれば和気藹々とした雰囲気だった由です。

「あさま山荘」や「地下鉄サリン」みたいなことが起こらなきゃいいなぁ・・・とオレは思っています。

わりとマジで。

※原発の是非や、いわゆる「放射能」の現状については、あえて除けての上記です。

※ちなみに、オレはぶっちゃけた話、どちらかといえば「反原発」です。

っていうか、あんな事故を「体験」して、それでもなお「原発推進」ってのは、ちょっとありえないよな、という感じです。

ただ、その主張が、単なる「イデオロギー」若しくは宗教的感性の部分で止まってしまってはイカン、と。こういうのは「思考停止」であって、なにも生み出さないんじゃないですかね、という次第です。

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クズの連鎖。

高橋克也容疑者:金を脅し取られた…菊地容疑者同居の男に

とのこと。

・・・オウムにつきましては、昨日、麻原のクズさ・クソッタレぶりについて書きましたが、この教団の周辺にはホントに想像を是するクズばかりが屯しておりまして、もはや瞠目し過ぎてメダマがこぼれ落ちるレベルです。 

中でも・・・この記事を信用するならばという前提付きですが、この「高橋寛人容疑者(41)」は、もうホントにクズ過ぎて言葉を失います。 

「こいつら指名手配犯人だから、なにやっても通報されないから、やることやっちゃおう」 

・・・この発想がクズのそれでなくて何なんだ、って話です。 

でもって、世論が菊地etcになんとなく同情的なのはなぜかというと、こういうクズ連中の中で、相対的にまだ彼らの方がクズ度が低い(ような印象がある)、ってことなんですね。元々高学歴だったとか、各々のサイドストーリーがそう感じさせるものだったりするんでしょうけど。 

そういう側面が一面において有るのは確かですが、やはりどこをどう取っても、どう転んでも、彼らは結局のところ「指名手配逃亡犯」ですからね。過度な同情は、過度に攻撃的だったりすることと同様に危険なことだと思うし、やっぱり間違ってる、とオレは思います。 

大体がですね、 

> 克也容疑者は一時、川崎市の自宅アパートに「タンス預金」として1700万円程度を保管していた 

と記事にありますが、これについて菊地は「2人で働いてためた」と供述してますよね。 
内装屋の(恐らくは)個人親方と、高齢者介護ヘルパーだかなんだかやってる二人が、ものの数年でこんだけ貯められるわけねーだろ!と、オレは思いますよぶっちゃけた話。 
カネの出どころはどこなんだよ、と。 

とはいいつつ、特に菊地に関しては、同じオウム関連での各判決と照らすとどこをどうコネクりまわしても重刑が科せられる感じではなさそうだし、オウムなんぞにハマらなければ、それなりの社会的地位に居ることも可能だったろうにな、彼女にとってこの17年ってなんだったのかな、などとは思ったりしていますが。 


ところで・・・この「高橋寛人容疑者(41)」、菊地の供述によると、長年の同棲の末に求婚した際に、自分がオウム手配犯だと告白された、という次第ですよね。 
では、高橋克也をそう認識したタイミングはいつだったんでしょうか。 
また、そう認識した際の状況、ね。これがよくわからんです。 

“そうか、こいつら二人とも、指名手配中なのか” 
と、このクズ(「高橋寛人容疑者(41)」)が認識したのはどのタイミングだったのか、そしてその後、この度逮捕されるまでの、このウルトラクズがなにをし、なにを考えてたのか、その辺がちょっとばかり気になってたりします。  

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「オウム」についてのこと。

菊地が逮捕される1週間くらい前から「オウム」関係の本を読み齧り始めてたところなので、ここのところの逃走犯逮捕ラッシュには驚いております。なんたる偶然か、これがシンクロニシティというものか、と。 
逃走していたメンツのうち、高橋は平田や菊地に比べ重刑の科される可能性が非常に高いので、ちょっと注目したいと思っています。ってオレが注目したところで大勢に毛ほどの影響も無いわけですが。 

さてさて、「オウム」関係の本など読んでますと、まぁなにしろ教祖であった麻原のクズっぷりに瞠目させられます。法廷での意味不明発言や、露骨な責任転嫁などについては知られていますが、そんなどころじゃない、正真正銘のクズヤローだ、と。 

例えば、某幹部が、オウムとしては禁忌になっている恋愛沙汰を起こした際、麻原は彼に4日間の懲罰房行きを命じるのですが、この幹部が懲罰期間を終えた後、彼は麻原にこう言われます。 

「まぁ○○よ、あの娘じゃあ(恋愛沙汰になっても)しかたないな」 

・・・彼は、なんでこんな妙なことを麻原が言うのか不思議に思いながら通常の「修行」に戻るのですが、その後麻原の居室に入った際、彼女が麻原の寝室で寝てるのを目撃してしまうんですね。 
ゲヒンな言い方をしちゃうと、要するに彼氏を懲罰房に入れてる間にテメーが食っちゃってるわけですよ。その上で、上記のセリフと相成るわけです。 

こんなエピソードがこの教団には満載なわけですが、例えば上記の件において、この幹部はさらに驚いたことに、決して麻原を責めたりなどしていないんですね。 

むしろこの場合、彼はひたすら自分を責めたわけです。 

「オレの修行が足りないから、尊師はオレに試練を与えて下さったのだ」 

と。 

こうなると、クズなニンゲンとしては、正にクズであるが故の当然帰結として、ドンドン、ガンガン増長していきますわなぁ。 
で、その増長が暴走というレベルで膨れ上がった結果が、坂本弁護士一家の殺害や、地下鉄サリン事件となるわけです。 


そんなわけで、一連の「オウム」の所業に関しては、こと麻原側に関しては単純に説明可能だったりします。即ち「クズがトップに立つとロクなことにならない」、このことの究極形、ということで無問題だ、とオレは思います。 

しかし、じゃあなんでまたこんなクズがトップに立てちゃったのだろうか?、という部分。これについても、研究書etcがゴマンとあるわけですが、いずれも明快な解を示すまでには至ってません。 
教祖としての麻原に父性を(勝手に)見出し依存していった、とか、非常に複雑怪奇な利害関係が個々に存在していたのだ、とか、まぁいろいろ言われてはいるようですが、100%の核心は捉えきれていないように思えます。 

・・・まぁねえ、100%の核心、なんてものは、信者が全て独立した個人である以上、存在しないのかもしれません。 
かといって、麻原がそんな個々に対して、個別の「洗脳」を施したとも考えられません。そんなマメな男では無い。 

逆に、オレなどがなんとなく感じるのは、その想像を絶するクズ人間っぷりで、ブルドーザーのように圧倒していった、というイメージです。 
有無を言わせぬクズっぷりに相対すると、なんかもうモノを言う気力が無くなっちゃったりするじゃないですか。 
大抵の場合、それには「呆れ」などといった感情が伴うと思うのですが、もうそれも許さないくらいのクズ、というかね。 

で、他面において、「圧倒」され洗脳された信者らの方にも、どこかでそれを望んでたようなフシがあるんですね。 
それが或る場合においては前述したような「父性の渇望」という形になってるのかもしれませんが、それもこれも含め、どこかにある種のマゾヒズムがあるような気がします。 
クズ人間に圧倒される快感、というかね。 

・・・まぁこれも「100%の核心」だとはとても思えないですけどね。我ながら。 


その上で・・・「オウム」に関する全ての裁判で、この「圧倒」、洗脳=マインドコントロールに関してあまり深く触れられてないのは、オレ的には、なんというか、ちと残念也、という感じです。 
裁判は常に個々の犯行に対してひらかれたわけですから、その分析が「オウム」関連の全てを総括する「00%の核心」である必要など無いわけです。 
だから、もっと仔細な分析があってもよかったんじゃないか、と思う次第です。 

「オウム」についてのこと。 Read More »

昨日に続いて。

昨日に続いて「菊地直子容疑者逮捕」に関して。

逮捕時の報道をみると・・・読売、産経、毎日とも、「殺人と殺人未遂容疑での逮捕」となっていますが、これが少々よくわからないです。彼女を「殺人罪」に問うのは、私的にはちょっと無理があるような気がします。 

彼女は「地下鉄サリン事件」と「都庁小包爆弾事件」への関わりが疑われているわけですが、後者では死者は出ていませんし、前者でも直接的行為者だったわけでもないので・・・オレは法律関係は素人ですが、「殺人」での立件・起訴はちょっと難しいんじゃないか、と思えてなりません。 

ちなみに「目黒公証役場事務長拉致事件」において、拉致実行犯の井田喜広は懲役6年、当時TV見てた人にはおなじみの松本剛は懲役4年、林武は懲役3年・執行猶予4年、「拉致命令」者として飯田エリ子には懲役6年6ヶ月の刑が確定しています。 
全く別の事件ではありますが、幹部でもなんでもなかった彼女が、上記以上の刑を受けるとはちょっと思えないんですよね。 

帰社してネット繋げてみたら、今日は各紙に、逮捕直後と思われる彼女の写真が公表されてました。 
逮捕時に報じられた「青色トレーナーにジーンズ姿」そのままでしたので、ホントに直後に撮ったんでしょうね。 

で、それに対するネットの反応は「なんか普通のオバチャンだなぁ」的なものが多数です。 
40歳を過ぎたら、人相etcにそれまでの人生が出る、といいます。実物に会ったわけじゃないのでホントのところはどうだかわかりませんが、写真の通りの「普通のオバチャン」だったとしたら、それは彼女が、普通のオバチャンとしての生活を続けていたから、ということになります。 

至る所に自分の手配写真が貼られまくってる中、普通のオバチャンでいることは相当の苦労を伴ったろうな、と想像します。 
っていうか、そんなことがホントに可能なの?とも思うのですが、確かに写真を見る限り「普通のオバチャン」以外のなにものでもないですよね。 
逃走中の彼女の「生活」については、これからおいおい明らかになっていくと思うので、その辺興味深いところです。 

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「カルト」とか、いろいろについて。

オウムの菊池直子が、なんか捕まった由。
突然のことで驚いていますが、考えたら大抵の「タイホ」は突然であるわけなので、そこはそんなにビックリするこっちゃないやね。
しかしそれにしても、ついこないだNHKでオウム関連特番の放送があったばかりで、しかも実はこのGWくらいから関連の本など読み始めたところだったので、やっぱり大変ビックリなニュースでした。 

ああ、だからこんなヘンな時期に特番なんぞやったのかな、しかもあんな大掛かりな・・・などと、ヘソ曲がりなことを考えたりしつつ報道に触れているところです。 

もうかれこれ10年以上前の話ですが、当時のオレは某ローカルTV局に勤務し、そこである情報番組を担当しておりました。 
番組には警察・消防・税務などといった「署」関係の枠がありまして、それこそオウム逃走犯の告知や、交通安全だ防災訓練だ確定申告だといった特集を組んだりしておりました。 
そんなわけで、必然的に各署の皆さんとも(公私ともに)いろいろお付き合いがあったりしたのですが、中でも特に昵懇だった某警察署の生安や刑事といった課の皆さんに、よくこのオウムに関する話を聞かされたものです。 

「菊池と高橋はともかくなぁ、平田は確実に日本にいるんだよ!」 

とかね。 

当時は”なんで平田だけ?”とか思ったりしたのですが、先般その平田「だけ」が、しかも自分から出てきたりしたので、ああもしかしたら、あながち・・・とか、なんか不思議な心持がしたものです。 

そして今日、菊池直子の身柄確保の報。 
副署長レベルも交えて、どう告知すべきか、なんてよく打ち合わせしたっけなぁ、などと、なんだか感慨深いものがあります。 


ところで・・・このオウムという教団は、よくよく調べると、実はなにからなにまで失敗の連続で、それどころかその失敗のどれもこれも、もうバカ丸出しのマヌケなものばかりだったりするんですよね。 
VXガス作れば失敗するし、ガス噴霧器作ったら間違って自分らがかぶっちゃったり、コスモクリーナーなどという宇宙戦艦ヤマトかぶれ丸出しなシロモノを結構なカネかけて作っちゃったり、もう枚挙に暇がありません。 

なので、残る高橋も・・・いっときは国外でもって影のドン的支援者に匿われてるのでは!?なんて話も出てましたけど、結局は普通にずっと国内でフラフラしてるんじゃないか、という気がします。最大級の警戒をしたものの、いざフタを開けてみたら予想を大幅に下回ってた、なんてことばかりのマヌケ集団でしたからね。 

※ちなみにアホな失敗ばかりの彼等でしたが、なぜかサリンの製造には成功しちゃったんですね。これが最大級に不幸な「偶然」だった、と言わざるを得ません。 


こないだのNHKの特番も含め、現在まで実にいろんなメディアでこの教団の犯罪、引いてはこの教団そのものについて、これも実にさまざまな分析etcが試みられていますが、ひらたく言ってしまえば、全ての根源は、要するに彼等が上から下まで、もう徹底的に「世間知らず」であった、ということです。これに尽きるんですね。 
幹部にしても、世間知らずの先鋭的エリートが、世間知らずであるが故にその「夢想」に抑えが効かなくなって暴走してしまった、と言えるように思います。 
で、その抑えのタガを外した、若しくは、自らのタガを外すためのある種の逃げ道としたのが、麻原という「カリスマ」とされた存在なんですね。 
なにしろ「超能力者」なんですから、どんなにリクツに合わなくても、どんなに理不尽でも、もはやなんの問題も無いわけです。 

事ほど左様に、世間知らずであるというのは、恐ろしいことです。 
でもって、そんな彼等の世間知らずを笑えるものは、実はそんなに多くない、という。 
これもまた恐ろしいことです。 

弊社などもいわゆる零細企業ですから、それは即ち、社会活動の範囲が狭くなりがちだ、ということに他成りません。。 
自分の周りの「社会」が全てだとか、夢にも考えたりしないように、これは意識していかなければいけない、と、この零細企業の社長であるオレは常々思っています。 
上記のサラリーマン時代は、仕事柄、警察、消防、税務、町内会のオッサン&オバチャン、学校に幼稚園・保育園、政治家、各種代理店、と、それこそありとあらゆる職種や立場の人と、決して浅からぬお付き合いをしてたものです。退社する直前の2年間くらいは、実際に出社するのなんて月に1、2回だけでした。なにしてたのかというと、上記したような人と常に「お付き合い」してるわけです。 

なので、あの頃に比べると、今はやっぱし世界が狭くなってるなぁ、と自覚しています。 
それはつまり、その狭くなった分だけ、極論すれば「カルト」化してる、と、言って言えない事もないわけでね。 


無理矢理な結論ですが、我々は常に「世間知らず」に堕ちる可能性を内在してるのですよ。 
で、その行き着く先は、究極的には「カルト」です。 
オウムの、幹部のみならず全ての信者も、一足飛びにあそこまで至ったわけじゃないですからね。 
また彼等には、教祖という、自らをカルト化してしまうのに格好の逃げ道が在ったわけですが、同じようなモノが我々のそばに居ないなんて保証はどこにもないわけです。 
SOHOなどの人はいうまでも無く、会社内と、一部外部関係業者とだけのお付き合いしかしてないなぁ、とか、そういやご近所くらいしかお付き合いがないな、とかね。そういうのも「落とし穴」ですよ。 



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