東京都江東区大島五丁目 大島稲荷神社公式サイト





  
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●鎮座地
 東京都江東区大島五丁目九十三番地

●御祭神
 宇賀之御魂神(うがのみたまのかみ)
 太郎稲荷大神(たろういなりおおかみ)
 迦具土之命(かぐつちのみこと)

●御神徳
 御祭神の故事に因んで、家内安全、商売繁盛、交通安全、厄祓い、火災消滅(愛宕の神様)、学業成就、身体健全、病気平癒など、諸々の心願成就を導く大神様です。


当神社・大島稲荷神社(おおじまいなりじんじゃ)の鎮座するかつて(江戸時代初期)の武蔵国南葛飾郡大島村界隈は、小名木川に近いことなどもあって、常に洪水などの水害に悩まされがちな土地柄でした。
それを憂いた当時の村人たちが平安を祈って相謀り、山城国(京都府)伏見稲荷大社御分霊を奉還し、この地の産土神として現在の場所に祀ったのが慶安年間といわれています。
これが当神社の起源となります。


例大祭(大正九年)
文化11年の「新編武蔵風土記稿」には、すでに「稲荷社愛宕社共に村内及び大島町の鎮守なり」という記述がみられます。
このことからも当神社が江戸時代を通して大島の鎮守様として厚く祀られてきたということがわかります。
明治30年6月には浅草光月町入谷田圃にあった太郎稲荷(旧柳川藩立花家下屋敷邸内社)、そして昭和19年6月には現在の丸八通り・丸八橋付近にあった愛宕神社が合祀されるなど、往時には広大な境内地を誇っていました。

昭和20年1月に村社に昇格しましたが、同年3月の東京大空襲によって残念ながら社殿や大神輿などが焼失してしまいました。
しかしいち早く昭和21年には仮社殿を建立。その後都市計画街路環状線第六号予定線内としての4mに及ぶ境内地周辺の土盛りや、環状四号線道路建設といった周辺環境の紆余曲折を経て、昭和42年に氏子崇敬者の支援により現在の位置に新たな社殿と社務所が建立、復興されました。

平成11年には、これも氏子崇敬者の支援のみによって念願の大神輿再建を果たし、さらに平成22年には中神輿も新造。
お祭りや境内各所に残る旧跡なども相まって、大島の鎮守様として多くの皆様の厚い崇敬を賜りつつ、益々隆盛し現在に至っています。


小名木川が水運交通のメッカとして賑わった当時、芭蕉、広重、一茶など多くの文人墨客がよくこの地に遊びました。
そしてその縁で、これらの人々と当神社とのゆかりの記録もまた多く残されています。


松尾芭蕉は50歳の時(元禄5年)に、門弟である桐奚(とうけい)宅を訪ねる途中で当神社に立ち寄り、
「秋に添て行はや末ハ小松川」
という句を詠んだと言われています。
神社入口左手には当時建てられたその句碑「女木塚(おなぎづか)」(江東区有形文化財)が残っています。

また平成元年には「俳聖松尾芭蕉奥の細道旅立三百年記念句碑」、そして平成12年には、当神社御鎮座350年大祭記念事業として俳聖松尾芭蕉翁像が建立されました。

当神社は小林一茶ゆかりの地でもあります。
一茶の『享和句帖』には
「江戸本所五ツ目大島  愛宕山別当 一茶園雲外」
と署名があります。
この「愛宕山」とは、当神社と合祀された愛宕神社を指すと言われており、一茶は享和3年から4年にかけてこの愛宕神社の一角に住んだとされています。




境内右側にある手水舎。こちらの石水盤は江戸時代に当時の江戸町火消九組によって奉納されたもので、やはり江東区有形文化財に指定されています。

平成27年には手水舎が新築されました。

その他、石造燈籠一対(大正8年在銘、石造鳥居(明治25年在銘)、石造狛犬一対が江東区の登録文化財となっております。



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